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大羊春秋~羊務執筆者党史~(5)

この「大羊春秋」(だいようしゅんじゅう)とは、私が主宰していた同人誌サークル「羊務執筆者党」(ようむしっぴつしゃとう・略称SSP)の活動を振り返る「回顧録」です。

黎明期の羊務執筆者党

「羊務執筆者党」の名が初めて世に出たのは、成人向漫画雑誌『レモンピープル』のコーナー「お知らせ伝言板」の「同人誌通販」欄においてです。1987月12月号でした。

昭和62(1987)年12月のある日のこと、I上から速達郵便が届きました。現物が亡失してしまい正確な日付が分からないのが残念です。
わざわざシーリングスタンプ(封蝋)がされた物々しい封書で、中には短い書簡と一緒にシンボルマークのようなものが描かれた版下用紙が入っていました。
それが「羊務執筆者党」の「党章」です。
サークル名が由来で「羊」を図案化したもので、これはI上からハッキリと聞いた訳ではありませんが、「双頭の鷲」を模したものでしょう。
「双頭の黒羊」の脚元にある円の中にあるマークはアルファベットの「M」と「Y」組合せたものです。これは「羊務執筆者党」の前身である「面妖本執筆者党」の頭文字で私の案です。
後述する会報の『SCHAFS NACHRICHTEN vol.1』の記事「羊務執筆者党志」によると、党章の制定は昭和62(1987)年12月27日(日)とあります。

党章は幾度か改訂されており、これは平成20(2008)年頃に改訂された最終形態。

党章を決めることをどちらが言い出したのか記録にありませんが、I上と私の間で自然発生的に生じたのかもしれません。

とにかく私はこの党章が大変気に入り、「羊務執筆者党」の発行物のほとんどに記されました。また、一時はこれの徽章を作るのを真面目に考えていたほどです。
同人誌界でこれほど完成度の高いシンボルマークを有するサークルはそうないと自負しています。
もっとこの党章をコミケなどで広めたかったですが、私の器量では叶わぬ夢でした。

同時に私の希望でI上によりサークル名がドイツ語に翻訳されます。
ところが、“羊務”なんて造語な訳ですから、翻訳は困難極まりありません。苦労の末、日本語を直訳してなんとか仕上げてくれました。

「Schafs Pflicht Schreibers Partei」

飽くまでも日本語に単語を当てはめただけなので、文法が度外視されているのは言うまでもありません。
このドイツ語訳? が由来なのが「羊務執筆者党」の略称「SSP」です。この略称は奥付や通信頒布の宛先で実際に使われました。ちなみに発音は当然ドイツ語となります。
以後、当『大羊春秋』でも「SSP」と表記します。

昭和63(1988)年5月、党員番号が制定されます。……と言ってもこれはシャレのようなものです。
第一次世界大戦後のドイツにあったとある政党に倣い、党員数を100人水増しし私がNo.101、I上がNo.102といった具合です。
『四面楚歌 -第弌号-』の編集を手伝っていただいた鴨志田淳ことHさんをはじめ、「SSP」の活動に御協力いただいた何人かの方にも強引に授与しています。
党員番号は後述の会報郵送時の宛先に記載されるなどで使われました。

いよいよ「SSP」にとり初めての同人誌即売会参加となる「コミックマーケット」がやってきました。
【コミックマーケット34】
・開催日:昭和63(1988)年8月13日(土)・14日(日)
・会場:東京都中央区晴海「東京国際見本市会場」
・配置場所:13日「U-46b」(新館2階)
売り子は私独りです。

当時、コミケは夏(8月)、冬(12月)の年2回開催でしたが、この年は会場が取れずこの「コミックマーケット34」のみでした。会場は「31」から東京都大田区平和島の東京流通センターでしたが、この「34」から「東京国際見本市会場」に戻っています。

『SCHAFS NACHRICHTEN vol.2』の記事「会計報告」によると、2日目に委託頒布を行っていますが、その委託先となったサークルがどこなのかは不明です。

ただこの時『四面楚歌 -第弌号-』の頒布は既に終了していました。
そのため『BokyBoky』という私が高校1年の時に同好会で作った同人誌、それと『NIPPON CHA!! CHA!! CHA!!』と『Kyara』という2種類の豆本を頒布しました。
「豆本」(折本ともいいます)とは、中央に18cmの切り込みを入れたB4判の紙を折って作る8頁の小さな手作り本のことです。
「SSP」では「豆」を女性の体の一部になぞられて「C本」と呼んでいました。(笑)

C本『Kyara』の表紙、作者は真慧多昭彦。この頃、P.N.を真恵多から変えていた。なおI上による『NIPPON CHA!! CHA!! CHA!!』は亡失。

『BokyBoky』というオフセット本が少数あるものの、「豆本」が目立つスペースを見た通りすがり男性に「チャチな物ばっか売ってんじゃねえよ」という旨を言われた際は、悔しかったのと同時に非常に腹が立ったものです。

この「コミックマーケット34」ではI上に前もって紹介状を渡されたうえ、とあるサークルのスペースを訪ねるように言われていました。
私は言われた通り訪ね紹介状渡すと、売り子をしていた男性がそれを受け取りお互いで挨拶を交わしました。
この男性はI上の同級生(小・中どちらかは失念)でA見といいます。
彼は絵を描かないため漫画などの寄稿はありませんでしたが、文章モノや編集作業、さらにアドバイザーのような役割で、後に「SSP」の活動に参加します。
しかし、この時点ではI上が私とA見を何故引き合わせたのかは分かりません。


私が何故ドイツ語にこだわったのかは、長くなるうえ剣呑な内容になるため敢えて述べないことにします。
コミケ初参加は正直、冴えないものでした。
結成して1年経っても「SSP」はまだ混迷の時期だったと言えるでしょう。

《第5回おわり》

※文中敬称略

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「SSP」(当時の表記はS.S.P.)から送られた残暑見舞い。元ネタは「ひっとらぁ伯父サン」と「マカロニほうれん荘」。