見出し画像

自分を変えるということの意味

なぜ、自分はこんな性格なのか。
なぜ、自分はこんな体質なのか。
なぜ、あの人にできることが、自分にはできないのか。

学生時代に誰もが抱くこうした自意識は、大人になると消えるのだと、周りの大人を見て漠然と考えていました。
しかし、自分が大人になってみて、そんなことはまったくない、むしろ人によっては加速、凝固していくのだと知りました。

多くの人は、おそらく気づいているでしょう。
今やこうしたコンプレックスのほとんどが、自分の「努力」で改善できる時代だということに。

意識を変えれば、性格は変えられる。感情は技術でコントロールできる。
お金をかければ、脱毛や整形ができ、理想の容姿に近づける。能力も、ある程度は買える。
手術、法的手続きで、性別や名前を変えられる。

意識の変容や鍛錬、資金調達という「努力」は必要ですが、以前は「自分では変えられない」と思われていたことも、ある程度は変えられる時代になっています。

だからこそ、「『自分を変えようとしない自分』が悪いのだから、自分の欠点は自分のせい」と捉える人もいます。
本気でやれば変われる。だとすれば、自分が変わらないのは、本気でやらない自分のせいだ、と。この論理を他人に向け、攻撃する人もいます。

まず、それは本当に自分のせいなのか。

外見や体質を変えるということは、結局はそれを実行するかしないかという意志、すなわち内面の問題に収斂するので、ここでは主に内面部分に焦点を当てます。

自分の性格が嫌いな人は多いと思います。そして、それは変えられるものだと思っている人も多いでしょう。
逆に、自分の好みについては、変えられるものだとは思われないし、多くの人は意識もしません。ただし、マイノリティの自覚を持つ方々は、強く意識されるかもしれません。

では、自分の性格や好みは本当に変えられるのか、もしくは変えられないのか。
そもそもそれらはどのように形成されたのか。

一つだけ確かなのは、それは「自分」ではないということです。
ここで重要なのは、「自分を作っているものはすべて自分以外である」という事実を知ることです。

今の自分を形成するもの、たとえば家族との思い出、話している言語、友人との何気ない会話、尊敬する先生の言葉、むかし観た映画、生まれ育った家、食べたもの、吸った空気、果ては遺伝子まで。
100%外的要因です。
タマネギの皮を剥くように、外因を一つひとつ剥がしていくと、最後には何も残りません。
つまり、自分自身が自分自身であることに、自分の責任はまったくありません。
(※因果律や決定論を支持するのではありません。責任は社会的現象であり決定論とは無関係という立場です。行為には責任が生じると思います。)

だとすると、「自分を変えられない自分」でさえ、自分の責任ではないことになります。
自分の嫌な部分も、努力できないことも、自分のせいではありません。

同時に、自分の内面を自分の意志で変えることは原理的に不可能だということもわかります。
遺伝子や育った環境、友人の言動などの外因は自分ではコントロールできないし、そもそも「意志」すら周りに作られた幻想だからです。

しかし、自分を変える方法はあります。それは、周りの環境を変えることです。

誰しも少なからず、周りの人、モノに影響された覚えがあるでしょう。
ポジティブな集団の中にいると、自分も自然とポジティブになっていく。
清潔な建物の中にいると、自然と綺麗好きになっていく。
旅行で知らない土地に行くと、知らない自分に出会う。

肉体も同様に、健康的な食習慣が健康的な体を作ります。
外科的な手術が、新しい外見を作ります。
すべては自分の「外」からやってきます。

当然、過去に経験したことは変えることができないので、自分のすべてを変えられるわけではありません。でも、ストレッチと同じで急激な変化は怪我のリスクがありますが、ほんの僅かな変化でも、徐々に可動域を広げていけば、いずれ大きな変化になります。

たとえば、憧れの人の習慣やファッションを真似すること。
自分の理想に近い人たちの輪の中に入っていくこと。
高めたいスキルに合わせて質の高い道具を揃えること。

自分の意志では自分は変わらない。自分の意志を作っているのは自分ではないから。
「環境を変える」「形から入る」ことこそが、自分を変えることの本質的な意味なのだと僕は思います。

この記事が参加している募集

#新生活をたのしく

47,912件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?