見出し画像

面白い! トルストイの芸術論

トルストイは、「アンナ・カレーニナ」、「戦争と平和」などの長編を書いた帝政ロシアの作家です。きっと堅苦しいだろうと思いながら読み始めましたが、意外に分かりやすい内容でした。

理論・理屈やレトリックを多様するのではなく、例え話を用いて小説・絵画・音楽全般の芸術論を展開します。19世紀当時の芸術に対する批評というか酷評がとても印象的です。

絵画では印象派、音楽では晩年のベートーベンの作品を酷評しますが、特にワーグナーについての批判に多くのページを割きます。印象派もベートーベンもワーグナーも好きな私からすると、文学の巨匠が音楽の巨匠をここまでこき下ろすと不愉快になるどころか、むしろ微笑んでしまいました。

トルストイは友人に誘われてオペラ「ニーベルングの指輪」の2日目に行きます。2日目は「ジークフリート」ですが、これをあらすじに沿って詳細に書き記します。そして、酷評していきます。途中で帰ろうとしますが、友人に引き留められ我慢して観劇しますが、とうとう我慢しきれず退席してしまいます。

よほどワーグナーのことが嫌いなようで、この後も、所々にワーグナーについて批判というより悪口を述べ立てます。

もちろん、芸術についても語っていますが、100年以上経ってもその内容は色あせていません

芸術のはたらきについて、「人間に聴覚や視覚で他の人間の心持の現われを知るとその心持を表した人が感じたのと同じ心持を感じる力があるということから来る」とし、「人間が他の人間の心持に感染する力こそ、芸術のはたらきの土台なのだ」とします。

この「感染性」については、「本当の芸術を偽の芸術と区別する疑いのない特徴」とします。
「人が自分の方からは一向はたらきかけることも、自分の立場を少しも変えることもしないで、他の人の作品を読んだり聴いたり見たりして、自分がその作者と1つなるような心持になるばかりでなく、自分と同じようにその芸術作品を味わう人たちとも1つになるような心持になる場合に、そういう心持を起こさせた物は芸術品だ
「他の人たち(聴手や見手)と精神的に1つになる心持を起こさせなければ、芸術品ではない」

とても分かりやすい芸術に対する考え方です。

偽の芸術のやり口として、「借りてくる、似せる、あっと思わせる、釣っていく」、を言い、ワーグナーのオペラは「借物」「模写」「飾り」「釣っていく」の要素がすべて織り込まれた芸術模造品とします。

ワーグナーが成功したことについては、「国王(バイエルン国王ルートヴィヒ2世のことです)の資力を思うように使えるという例外的な地位にいたお陰で、偽の芸術を長いこと修行して考えついた芸術模造のいろいろな工夫をごく上手に使って芸術作品の模範的な偽物をこしらえ上げたのだ」とします。

ここまでトルストイがワーグナーを酷評するのは、「われわれが本当の芸術を見分ける能力をなくして、芸術とは少しも関係のない代物を芸術と認める習慣になっている」ことを言うためです。

「『おお、どうだ、実際、何という詩だ。すばらしいものだ。中でもあの鳥ときては』『そうだとも、そうだとも。私はすっかり参っちまった』というように、こういう人たちは、信頼しても大丈夫だと思われる人たちの意見を聞くと、口々にその通り繰り返す」
「いくらナンセンスやまやかしに気を悪くした人がいても、そういう人は怖じ気ついて黙ってしまう

現代でもありがちな場面だと思います。トルストイは単に批判するだけでなく、芸術に対する向き合い方を問うているのだと思いました。

「芸術とはなにか トルストイ著 河野与一訳 岩波文庫」から引用しました。絶版になっており、古書店で購入しました。ぜひ、大きな文字で再版してほしいものです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?