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論文「人間と政治」から組織運営スキル(演じる人間力)を考える

リーダーシップ研修、組織運営研修などで「人間力」がテーマになることがあります。その延長線上で人間力を磨くためにリベラルアーツの習得、なども研修メニューにあります。「人間力向上」「リベラルアーツ」はここ数年の流行ではないでしょうか。

その「人間力向上」という言葉を見たり聞く頻度が高くなっているのは、組織運営、特にビジネスの世界での指導力が、かつての高度成長期の個人の生活・価値観が「仕事・会社中心」から、「会社・仕事」は人生の一部であるというように変貌してきたことによって、多様性のある人たちの集団(会社)を運営するためには、従来型のマネジメントスキルに加えて「人間力」なるものが必要になってきたせいでしょう。

「人間力を磨く」という言葉もよく耳にしますが、「人間力」という曖昧まものをどうやって磨くのだろうか、「彼には人間力がないから」と一刀両断することでいいのだろうか、と思ってきました。私自身も「人間力を磨け」と言われたことがありますが、余計なお世話だと内心おもっていました。自然に振る舞っている姿から「人間力」が醸し出てくるにこしたことはありませんが、そのような人は希であり、むしろマネジメントのスキルだと思っています。

磨くことができる「スキル(技術)」。ではどのようなスキル(技術)でしょうか。このスキルが求められるようになった背景は次のように考えます。

チャーチルの言葉に「成長はすべての矛盾を覆い隠す」というものがありますが、社会や会社が成長している時には人は成長による経済的・精神的効用を得られるため、多少の苦痛や不条理は我慢していたでしょうが、成長しなくなると、不条理なことが顕在化し、それが成長を妨げる要因になるという「負のスパイラル」になってしまいます。

こうした状態においては、従来型の組織運営方法では人は動かなくなり、あまつさえ個々人の価値観の多様化により、人の行動様式はブラウン運動のようになり、同じベクトルに向かわせるのが困難になってしまいます。

指導者を語るときにカリスマ性という言葉がありますが、カリスマ性のある組織指導者というのは、人間性豊かなリーダーとは違うものであり、私の限られた経験からでしかありませんが、普段の行動だけでカリスマ的なリーダーと言われる人にそうそうお目にかかったことがありません。

「現代政治の思想と行動」に収められている丸山真男の論文「人間と政治」を読んでいて、「政治」を「マネジメント」と置き換えることができる、と思いました。
これは昭和23年に開催された文化講座の講演速記を基に翌年2月に新聞に掲載されたものです。
丸山は政治学者ですし、政治を念頭において語っています。経済も戦後の復興期の途上であり、企業経営も今とは大違いでしたから、丸山はマネジメントを意識していたとは思えませんが、70年たった今でも企業経営に通じるものがあります。

政治の本質的な契機は人間の人間に対する統制を組織化することである
「政治の働きかけは、必ず現実に対象となった人間が政治主体の目的通りに動くということが生命である」
「現実に動かすという至上目的を達成するために、政治はいきおい人間性の全部面にタッチすることになる」

政治家の責任は徹頭徹尾結果責任である

企業経営の責任は結果責任であり、いくら過程がよくてもステークホルダーは評価してくれません。自分の考えに腹落ちしてくれないと人は動いてくれません。表面的に動いてくれても面従腹背になり、よい結果を生み出すことはできません。

丸山は経済活動について「商品取引というような経済行為の働きかけは主として人間の物理的欲望に訴える」と言いますが、当時の経済行為は個人商店やそれに近い会社が主でしたからこのような記述になっていると思います。現代のような大組織の会社は、多様性のある個人の集まりという点において丸山が政治学的視点から観察していた政治・集団・大衆と共通項があると思います。

従って、その集団を指導する、統率する企業経営者は、ある意味で丸山が論文で使っている「政治家」と同じでしょう。

政治家がもっぱら現実の効果を行為の規準にするところから、政治家はある意味で俳優と似てくる

会社を経営するまたは部門を統率する立場の人には「演じる」ことも必要です。不思議なもので体調が悪い時に弱々しさをさらけ出すと、組織全体が弱々しくなってしまいます。それゆえ、元気なところを「演じ」て組織の活力を維持しないといけません。

また、その立場の人の規律が緩むと、組織全体の規律も緩んでしまいます。その人も立場を離れればただの人ですから、組織運営に関わっている時には、「ただの人」から「俳優」になる必要があります。

つまり、指導者としての「演技」です。「人間力」があると印象を与える演技。

演技するにしても、集団のどのレベルに合わせていくか、合わせないかということは大切なことです。

一般に集団を動かす場合、政治家はどうしてもその集団内部の種々の知的・精神的レベルの最大公約数の程度まで一旦は下って行かねばならぬ。この場合彼の指導性があまりにも強すぎると、彼は自己の率いる集団から遊離する。といって彼の指導力が弱いと彼は忽ち禍巻の中に巻き込まれる木の葉のように、集団に下層部に沈澱している傾向性にひきずられ、大衆行動の半ば盲目的な自己法則性のとりこになってしまう」

「指導なり支配なりに必要とされる政治権力の強さは、いうまでもなくその対象となる集団の自発的能動的服従の度合いと反比例する」

会社の指導者が会社の社員1人1人の意見に寄り添っていくこと、これをよく「現場をみる」「現場力」などと言いますが、実態を把握するためには必要なことですが、それをそのまますべて聞いていると、丸山の言う「とりこ」になってしまいます。彼ら彼女らの意見を咀嚼した上で、「集団的能動的服従(私はこれをモチベーションと考えます)」を社員から引き出すことがマネジメントのスキルです。「人間力」はそのスキルの1つにすぎない。しかも演じることで習得できるスキルだと考えます。

その「人間力」というスキルは「演じる」ことで誰でも得ることができるものだと思います。その人の人間性とかではなくて、後天的に習得することができるスキルだと思います。

会社運営で「政治的」という時には「駆け引き上手、人を陥れる」などネガティブな意味で使うことがありますが、ポジティブに言えば、丸山が言うような「演技」して社員の「モチベーション」を生み出すことも「政治的な動き」だと言えます。

コーポレートガバナンスコードの改訂、プライム市場の創設、など日本企業は変わらざるをえません。私がかつて滞在していたアメリカ、ヨーロッパの現地の組織(政治・会社)は、今の日本とは比較にならないぐらいジェンダー、年齢、国籍、など多様化していました。

多様性という視点でいえば、会社という1つの世界が、多様な人々が暮らす世間に似通ってこざるを得ない状況です。社会的多様性に順応できない会社は持続できないでしょう。

そういう多様性のある会社を指導・運営するには、いい意味での「政治的」なスキルが必要だと考えます。それこそが「演じること」で醸し出すことができる「人間力」だと思います。

「現代政治の思想と行動 丸山眞男 未来社」


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