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月と陽のあいだに

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「あの山の向こうに、父さまの国がある」 二つの国のはざまに生まれた少女、白玲。 新しい居場所と生きる意味を求めて、今、険しい山道へ向かう。 遠い昔、大陸の東の小国で、懸命に生き…
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#恋愛

月と陽のあいだに 202

月と陽のあいだに 202

流転の章岳俊(1)

 白玲懐妊の知らせは、久しぶりに宮廷を明るくした。
 皇帝はことのほか喜び、十分な準備を整えるように女官長に命じると、月神殿に安産祈願の使者を送った。大巫女のシノンからは、特別に祈祷した祝いの腹帯が贈られた。

 しかしこの知らせを快く思わない人々もいた。その筆頭が皇太子家だった。
 結婚前に臣下の礼をとったにもかかわらず、今でも皇太子よりネイサンの方が皇位に相応しいと考える

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月と陽のあいだに 200

月と陽のあいだに 200

流転の章吉報(2)

「おめでとうございます」
 一通りの診察を終えた医師は、白玲に微笑んだ。
「ご懐妊でございます。今は三か月目に入ったところで、産み月は九月になりましょう。お体の不調はお腹のお子の影響ですから、ご心配はいりません」
 白玲は目を見開いて、小さく口を開けたまま固まっていた。
「安定期に入るまで、しばらくは静かにお過ごしください。走ったり転んだりは、厳禁でございますよ」
 我に帰っ

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月と陽のあいだに 197

月と陽のあいだに 197

流転の章華燭(5)

 ネイサンは、皇帝直属の軍隊であるユイルハイ部隊の軍人だった。
「カナルハイとタミアと私は、十六歳で官試に合格した。四年ほど地方の皇衙で働いた後、タミアは執務室に呼ばれ、カナルハイと私はユイルハイ部隊の所属となった。男子皇族は、必ず一度は軍務に就くのが決まりだからね」

 昔語りをするような口調だった。
「陛下の治世は、けっして平坦ではなかった。数年おきに冷害が襲い、懸命に対

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月と陽のあいだに 196

月と陽のあいだに 196

流転の章華燭(4)

 明るい午後の日差しの中を、礼装の近衛に先導された花嫁行列が進む。月神殿への道には、美しい行列を一目見ようと、多くの人々が集まった。

 月神殿の入り口で、ネイサンは花嫁の到着を待っていた。濃紺の軍服をまとった立ち姿は、遠目には堂々として見えるが、後ろに回した手はしきりに閉じたり開いたりを繰り返している。時折する咳払いも、緩みそうになる頬を誤魔化しているのだろう。やがて花嫁の

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月と陽のあいだに 195

月と陽のあいだに 195

流転の章華燭(3)

 ネイサンが部屋を出ると、白玲は侍女たちの手を借りて白金色の衣に袖を通した。
 白い絹地には、金糸で精緻な地模様が織り出されている。この布地だけでも、どれほどの手間とお金がかかったか想像できない。カシャン家の力があってこその衣装だった。
 わずか十七歳のナイナ姫にとって、この衣装はどんなに重かっただろう。
 細かな刺繍が施された下着の上に、白金色の上着を重ねる。肩にかかるずっ

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月と陽のあいだに 194

月と陽のあいだに 194

流転の章華燭(2)

 婚礼の準備のために訪れた白玲を、ネイサンは邸の奥の部屋へ連れていった。
 重い扉を開けると微かに樟脳の匂いがして、部屋いっぱいに作り付けられた棚には、色とりどりの衣装が収められていた。迎えた女中頭が、うやうやしく頭を下げた。
「ここは亡き母の衣装部屋だ。ここにある衣装は、母が儀式の折に着たものだ。母は月族にしては小柄だったそうだから、そなたなら着られるかもしれない。お下がり

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月と陽のあいだに 193

月と陽のあいだに 193

流転の章華燭(1)

 ユイルハイへ戻った白玲とネイサンは、皇帝に拝謁した。進水式や氷海航路開発の報告をした後、二人は皇帝に結婚の許しを願い出た。
「考えておこう」
皇帝は返答を保留したが、その後の騒ぎは二人の予想をはるかに越えるものだった。

「ネイサン公爵と白玲皇女が婚約」という噂は嵐のように宮廷を駆け巡り、翌日には内廷も外朝もほとんど全ての人の知るところとなった。
 大騒ぎの中、誰よりも驚か

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月と陽のあいだに 192

月と陽のあいだに 192

波濤の章進水式(5)

 ネイサンは、つかんだ腕を引き寄せた。
「そなたにとっては、私は父の代わりだろうか」
 うつむいた顔を覗き込まれて、白玲は目を伏せた。
「私にとってそなたは、娘ではない。大切な愛しいものなのだよ。いつからそう思うようになったのか自分でもわからないが、もう手放すことも、他人に委ねることもしたくない。だから白玲、私のところへおいで。私の妻になりなさい」
 運河を渡る風の音だけが

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月と陽のあいだに 191

月と陽のあいだに 191

波濤の章進水式(4)

 後ろ姿を呆然と見送っているネイサンの背後で、クククっとこもった声がした。
「盗み聞きとは無礼だぞ」
振り向くと、カナルハイが腹を抱えて笑っている。
「いやいや。白玲に間違いがあってはいけないと見守っていたんだよ。それにしても天下のネイサン卿を袖にするとは、白玲は聞きしに勝る強者だな。これは、陛下とタミアにも絶対報告しなくては」
「そんな報告しなくていい」
憮然としているネ

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月と陽のあいだに 190

月と陽のあいだに 190

波濤の章進水式(3)

 進水式を終えた一口は、アンザリ領の領都カナンへ向かった。
 領主であるアンザリ辺境伯を表敬訪問した後、白玲は皇衙の官吏たちに再会した。白玲が残した仕事はオッサムが引き継ぎ、氷海沿岸の調査はさらに進んでいる。
 久しぶりの里帰りで、カナルハイ妃は姫宮とともにしばらくカナンに滞在するため、カナルハイだけがネイサンの船に同乗して、ユイルハイに戻ることになった。
「たまには奥方と

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月と陽のあいだに 189

月と陽のあいだに 189

波濤の章進水式(2)

「羨ましいように、良い家族だろう」
 白玲の気持ちを見透かしたように、ネイサンが声をかけた。
「皇家では、あんなに暖かい家庭を持つことは、とても難しいのだよ」
 月蛾宮で暮らしてみれば、そんなことはすぐにわかる。
「幼い頃のカナルハイ殿下は、両親の愛情を受けられずに育った。陛下はお子の養育には関わられないし、母である側妃様は兄の皇太子殿下にかまけていたからね。けれどもルリヤ

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月と陽のあいだに 186

月と陽のあいだに 186

波濤の章告別(1)

 トーランの棺が戻った日、そぼふる雨はユイルハイの桟橋に佇む人々の喪服を濡らした。小舟に引かれてゆっくりと接岸した船の甲板には船員たちが並び、礼砲の代わりに鳴らされた汽笛が、長く悲しい尾を引いた。
 礼装の近衛士官が棺を担ぎ、喪服に身を包んだ初老の女性と、アルシーとオッサム、カナン皇衙の領事が続いた。剣を立てて礼をする兵士の間を抜けると、棺は馬車に乗せられ、月神殿の仮墓所を目

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月と陽のあいだに 185

月と陽のあいだに 185

波濤の章演習船(11)

「薬湯をお持ちいたしました」
 ニナが捧げもった盆の上には、湯気を上げる小さな椀が載っていた。ネイサンは腕を緩めると、白玲の涙をそっとぬぐった。
 白玲は温かい椀を両手で包むと、薬湯をすすってほっとため息をついた。薬草の香りが、鼻の奥にスッと抜けた。
「今日は何日ですか。私はどのくらい眠っていたのでしょう。トーランとアルシーは?」
 ようやく現実に戻って、白玲は矢継ぎ早に

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月と陽のあいだに 183

月と陽のあいだに 183

波濤の章演習船(9)

 キタイの若者は皆の視線に一瞬怯んだが、続けた。
「俺、確かめようとしたんだけど、ちょうどその時、持ち場から呼ばれて見にいくことができなくって。それに自分の船の帆の綱を切る船員なんているわけないと思ったし、帆が上がっても綱は切れてなかったから安心しました。俺の見間違いだったんだと思いました」
若者がゴクリと唾を飲んだ。
「だけど次に強い風が吹いたとき、主帆の綱が切れたんです

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