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月と陽のあいだに 197

流転の章

華燭(5)

 ネイサンは、皇帝直属の軍隊であるユイルハイ部隊の軍人だった。
「カナルハイとタミアと私は、十六歳で官試に合格した。四年ほど地方の皇衙で働いた後、タミアは執務室に呼ばれ、カナルハイと私はユイルハイ部隊の所属となった。男子皇族は、必ず一度は軍務に就くのが決まりだからね」

 昔語りをするような口調だった。
「陛下の治世は、けっして平坦ではなかった。数年おきに冷害が襲い、懸命に対処しても民の暮らしはなかなか豊かにならない。
 そんな時、タリズ領の片田舎から土着の宗教が広がった。貧しさに疲れた人々はその神にすがり、カシャンやアンザリにも信者が増えた。教団は見る間に大きくなった。彼らは、自分たちの神こそが正しく、権力に守られた月神殿の神官は邪教の手先だと言って、各地の月神殿を襲った」
 白玲も耳にしたことがある、窮民たちの暴動だった。
「当時、ユイルハイ部隊にいたカナルハイと私も、暴動の鎮圧にあたった。タリズ領の前線で作戦参謀になったのだ。だが暴徒を前にして、机上の作戦ばかり立てているわけにはいかない。私たちも手勢を率いて戦った。背中の傷は、その時のものだ」

 白玲は、知らぬ間に拳を握りしめていた。
「暴徒の中には、戦とは無関係な女子供もいた。だが教団の首領は、そういう弱い者を人間の盾にしたのだ。悲惨な戦いだったよ。多くの人々が死んだ」
 ネイサンは、白玲の拳をそっと包んだ。
「もう二度と、あんな戦いはしたくない。だからカナルハイも私も、少しでも民が豊かになるように、農業や商業を興すことに力を注いでいるんだよ」
 軍務を退いたネイサンは、その資産を農村の改革や新しく事業を起こす人のために投資した。それが正しい道であることは、白玲にもよくわかる。

「教団は潰れてしまったの?」
 暴動が鎮圧された後、首謀者たちが苛烈な刑を受けたことは知っていた。
「表向きは、もうない。だが人の心の中は別だ。それを鎮めるために、皇后陛下が働かれたのだよ」
 思いがけない名前に、白玲は目を見開いた。
「皇后陛下は、綱紀が緩んでいた月神殿を改革した。あの方は、気性は激しいが聡明だ。名門バンダル家の嫡流の姫君でありながら、父のために貧しい暮らしを強いられたから、民の気持ちもわかる方だ」
 母を「卑しい農民の娘」と蔑んだ皇后に、そんな一面があったなど、白玲はすぐには信じられない。きつい視線をあげた白玲に、ネイサンは構わず続けた。
「大巫女の座についた皇后陛下は、汚職に関わった神官を追放した。そして新たに神職に就くものには、医術や薬学の知識を身につけさせた。子らの教育にも当たらせて、民の暮らしを支える仕組みを作ったのだ。
 今、シノンが大巫女として敬意を払われているのも、皇后陛下の改革が、民に受け入れられたからだ」

「あなたの奥方になれてよかったわ」
 突然、何を言い出すのか。ネイサンが白玲の顔を覗き込んだ。
「官吏はやめてしまったけれど、あなたと一緒にお仕事ができるなら嬉しいわ。私にもやらせてね」
 いつの間にか「叔父様」が「あなた」に変わっている。それに気づいたネイサンは、少し笑って白玲を抱き寄せた。

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