本屋の意義と読書会
本が好きだ、読書が好きだ。そして、本屋が好きだ。隙間なく本が詰まった棚を前にすると、ひとりでは一生かかっても知り得ない世界の広さと深さに圧倒される。本は作者や編集者がつくり出した知の結晶であり、それを運び、読者の手元に届ける取次や図書館、そして本屋の意義は決してなくなるものではない。
しかし、書籍の電子化の進行、実店舗を構えないネット書店の隆盛はリアルに小さくない影響を与えた。人口減少、娯楽の増加といったもっとマクロな要因もあり、”本屋”はその意義を問われている。
街においてはどうだろう。「まちの本屋」と言われた本屋は大型化の流れの中で閉業するものが多くなった。”本屋”が2020年に初めて1万店を割り込んだというニュースもあった。
街において本屋は”いらない子”なのだろうか。
デジタルに取り残されながらも懐古にしがみつく”老害”なのだろうか。
いや、そんなはずはない。街に本屋は必要だ。そのための武装が必要だ。レイ・オルデンバーグが、古き良きコミュニティにサード・プレイスという理論武装を与えたように。自分の大好きな場所が否定されてなるものか、という利己的な想いから手当たり次第始めてみよう。待っていても何も起きないから ハッタリでも動いていたい、と思う。
本棚を眺める珍種たち
自分が影響を受けた本のひとつに 蔵書一代 なぜ蔵書は増え、そして散逸するのか / 紀田順一郎 がある。書物への愛に溢れた一冊だ。著者の知人の書誌学者が学生に和本を手に取ることを勧めた一節を紹介したい。
学生たちにとって和本などは異界の物体にすぎないのだろう。学生の過半数が年間一冊の本も読まず、その現象が一向に改善されないということは、各種世論調査の、ほとんどデフォルトの結果となっている。団塊の世代以降で、束の間にせよ、書物への愛着を抱きつつ、本棚を眺める者がいたら、もはや珍種としか言いようがないのではあるまいか。
珍種は言い過ぎかもしれないが、周りで読書が趣味ですと標榜する人は多くない。書籍関連の団体に所属していない限りは読書好きと出会うこと自体、珍しいことなのかもしれない。
さて、そこで「本屋には意義がある」と表明するにはどんなアクションが取れるだろうか。”質より量”とはよく言ったもので、ただの本屋好きが提供できる価値なんて瑣末なものであるなら”数”で勝負していこう。1匹の珍種も集まれば立派な生物群である。図鑑に収録されるかもしれない。
ということで、読書会をやってみることにした。
読書会やってみた。
読書会については、 読書会の教室—本がつなげる新たな出会い 参加・開催・運営の方法 / 竹田信弥+田中佳祐 や、読書会入門 / 山本多津也 など良い参考書がある。それによると、読書会は……
1、本をテーマに人々が集まる会
2、二人いればもう読書会
3、一般に読書会には、”課題本型”と”紹介型”の、二つのやり方
とある。だいぶゆるい。では、自分が読書会をやるならどんな会にするか。大切にしたいのは会うこと、話すこと、そして楽しいことだ。会を通して、本を読むのって楽しい、あの本読んでみたいという気持ちになってほしい。具体的にはどうしようかと思考を巡らす。
いや、独りでつくってもしょうもない。頭でっかちになってしまっては、運営に気を取られて自分が楽しくない。よし、走りながら考えよう。いや、思考を放棄したのではありません。考えるのは後に回しただけです。
そして、知り合いの本好きのOくんを招集し、好きな本・最近読んだ本・今読んでいる本を持ち寄って1時間くらいだべる会をやることにしたのだ。以下は読書会という名目の、四方山話の一部始終である。
正欲 / 朝井リョウ
初めに話題になったのは 正欲 / 朝井リョウ についてだ。以前からOくんと話題に上がっていた作品で、Oくんから「読めました」という連絡を受けていた。読んだことのある人にはわかっていただけると思うが、「もう読む前には戻れない」という帯文通りの強烈な作品だ。
「本も読む方ですし、どちらかというとこういう問題に理解のある方だと思っていたんですが……」と表情を陰らせるOくん。しまった、初読書会にしてはテーマが重すぎたか、と心配もしたが、登場人物のその後や”多様性は真っ黒なイメージ”の話でひとしきり話せてしまった。真面目な話をちゃんと聞いてくれる、話せることを嬉しく思った。正欲だけで40分話してしまうタイムマネジメントの杜撰さは、楽しさと反比例している……はずだ。
最近、何読んだ?
何かしらを読んでいる前提で「最近、何読んでるの?」と問いかける相手がいることは幸せなことだ。自分は楽しみすぎて、読み切っていないものも含めてハードカバーで4冊を持参した。Oくんは近現代文学も含む文庫本4冊とKindleを取り出した。自分、こんなに読んでないかもと思ったのは秘密だ。
Oくんは「鎌田さんの気になるものあります?」と聞き、タイトルが目を魅いた アンソーシャルディスタンス / 金原ひとみ について教えてくれた。目次にはストロングゼロ、デバッカー、コンスキエンティア、アンソーシャルディスタンス、テクノブレイクとカタカナが並ぶ。目次の意味をほどいていくような物語を、ひとつずつ紹介してもらった。
古典の楽しみ
Oくんが持参してくれた本のひとつにカバーのない太宰治作品の文庫本があった。異色を放つ太宰を手に、話題は近現代文学や古典に及んだ。筆者も 人間失格 / 太宰治 を読んだことがあるが、正直わからなかった。なんだか不穏な雰囲気はわかるが、どう読めばいいのか、どう楽しめばいいのかわからなかったのだ。以外にもOくんもそれに同意してくれた。しかし、同様にわからなかった 伊豆の踊り子 / 川端康成 を5回くらい読んだとのことだった。1回目わからない体験をし、2回、3回と読み重ねると違った味わいがあると。
名著だということはわかっていても食指がのびない近現代日本文学、古典なら尚更だ。 しかし、今のエンタメ小説も、近現代文学もベースを辿り古典に行き着いたとOくんは言う。そして、古典を経て、読み返すことで少しずつその面白さが滲み出てくるのだ。
現代において文章を読んで”わからない”体験は実は貴重なものなのではないだろうか。例えば自己啓発本は非常にわかりやすい。どこで見たのか「全ての自己啓発本は10秒でなくなる全能感を得るための方法と言い換えられる」との文章を読んだことがある。全くもってその通りで、中学生でもわかるように書こう、わかりやすく、わかりやすく……速くよく効く、中毒になる。そんな中で近現代文学、古典のもつ”良いけどわからない”感覚は、じわじわ身に沁みる漢方薬のようだ。アンチ自己啓発本のようだが、筆者は自己啓発本も読む。その即効性が必要な時もあるのだ。
話を近現代文学・古典に戻そう。それらの価値は理解できるが、読みづらさは解消されない。そこでOくんが教えてくれたのが、ショート動画で名作のあらすじを紹介しているYouTubeチャンネル「Rinco connect」と、銀河鉄道の夜 / 宮沢賢治を解説したNote記事である。記事の筆者 fufufufujitaniさんは、構成読み解きを行っているそうだ。
「あらすじ知ってから読むと読みやすいですよ……」とはにかむOくん。そうか、自分は”1回きりの読書体験”を神聖化しすぎていたのかもしれないと気づく。よし、ずっと積んでいた 銀河鉄道の夜 / 宮沢賢治 を読んでみよう。
次回開催に向けて
初めての読書会は主催者が一番楽しむと言う顛末であった訳であるが、それでいいのだと言うために 読書会入門 / 山本多津也 さんの言葉を借りたい。
自分が楽しいと思うことを実直にやる。そして結果的にはそれがメンバーにとっても、魅力的なコミュニティ形成に繋がると信じているのです。
”自分が楽しい”を極められれば、きっと魅力的な会になるに違いない。いろんな本好きが集まり、自分より賢い人物たちも集まってくれるのではなかろうか。かの石油王 A・カーネギー は自身の碑文にこんな言葉を刻んだそうだ。
己より賢き者を近づける術知りたる者、ここに眠る。
石油王に俺はなる訳ではないが、己より賢き者が楽しんでもらえる場をつくることができれば、楽しみながら「本屋の意義」に辿り着けるかもしれない。この読書会もそんな場になっていけば……というささやかな願いをもちつつ、そんなことを忘れる楽しい読書会にしていきたい。ご興味ある方はぜひ語らいましょう。
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