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「外国人」であるということ

こんにちは、私の留学も終わりに近づいてきています。幸い韓国のコロナ感染者数も落ち着いていて、学校外での活動に参加するなど、外で活動することができています。

さて、私が今日書きたいのは、外国人であるということについてです。

韓国は日本と似ている、だからカルチャーショックもないだろうし、最近流行りだし、なんかいいな、と韓国留学に積極的な人は多い気がします。かつて韓国が好きだ、ということだけで差別的発言を受けてきた私からすればこの変化は嬉しいことですし、もっと韓国に留学する人が増えたらいいと思います。

もちろん韓国と日本は似ています。旅行する程度であれば特に何も不具合を感じないかもしれません。しかし、私は今回留学で韓国人ではない自分の不具合を非常にたくさん感じました。

最初から拒否される「外国人」の私

私は最初に会った人と、特に違和感を持たずに韓国語で会話をできる程度の韓国語能力があります。留学中電話で外国人だとバレたこともありません。文化に対する理解もあります。

それでも、そんなこと関係ありません。韓国国籍を持っていない私は、外国人というレッテルが貼られた状態で生きなければなりません。

コロナのせいもあってか、3月には皮膚科に予約までしたにも関わらず、門前払いされました。先学期、私は他の学生と同じ授業料を払いましたが、留学生だからという理由で学校のコロナに関連した奨学金(授業料の一部返還)の対象外になりました。私の名前を見るだけで私と関わろうとしない人がいます。逆に、日本人の女の子が好きだと近づいてくる人もいます。

ああ、これが、外国人の生きづらさなのか、と私は今回初めて身をもって知ることができました。

日本は外国人が住みにくい国として有名です。しかし、私は日本国籍を持っているため、不具合を感じたことなんてなかったわけです。私個人を見て、尊重してもらえることが当たり前だと思っていました。

しかし、外国ではそうではありません。私は、私である以前に、外国人であるということを思い知らされます。

同じ勉強をして、同じように生活していても、外国人だという変えられないアイデンティティで制限されることが、あまりにも多く、驚愕しました。

以前の記事にも書きましたが、国籍、というものによって決まることが、非常に多いと感じています。

また、国籍の取得できる基準も国によって違うため、複数持っている人がいたり、持っていない人が存在しています。

グローバル化が進む一方で、地球全体の取り決め、というのは増えているものの、まだまだ各国に任せている部分が多いのが現状です。

コロナ禍で、現在国際的な人の動きはあまりないものの、収束すれば人の動きはまた活発になることでしょうし、これから生まれた国とは異なる国で生活をすることがどんどん当たり前になると思います。

そうなる上で、人の単位やアイデンティティというものを再定義し、今の社会にあった形に作り直す必要があるのではないかと感じました。

日本の、日本人最優先、という考え方も見直される必要があると感じます。10万円給付が住民登録されている人を対象にした部分は、韓国の給付金よりも外国人を含めたいい対策だったと思います。しかし、一方で未だ解決されていない在日コリアンの選挙権や、在日外国人への支援の不足など、まだまだこれから変えていかなければいけない部分も多いのではないでしょうか。

今回、日本の外に少し出てみることで、自分が他所者であることの不都合をたくさん体験することができました。

帰国後もこの経験を忘れず、だれか取り残されている人はいないのか疑うことを忘れないでいたいものですね。

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