アートとビジネス、この二つのバランス感覚(アート系民宿創発の現場から)

アートとビジネスというと、
これ非常に難しい問題であり、
両立が困難であることが自明なのですね。

それはアートが、
超個人的な欲動であり、
超個人的なニーズであるわけです。
まぁある種の自慰行為。

そしてビジネスというのは、
あくまで対象者がおり、
個人的な欲動を無視する事と引き換えに、
相手のニーズを満たす事を、
お金と引き換えに行う。
つまり社会的ニーズでもあるわけで、
これは性交的で、
特に売春に近いと言えます。

これは理解しやすい様に、
マスターベーションとプロスティテュート。
極端に分断しています。
まぁそれくらい次元が違う話なわけです。

単純に次元が違う事を、
一人の中で同時進行させると、
必ず大きな矛盾が生じますので、
なかなか続けていく事自体難しいし、
アートとビジネスを上手くできた、
著名な芸術家をほとんど知りません。

しかし、
科学者や哲学者と芸術家を同時進行で、
成功させた芸術家というのは、
わりとたくさんいるのではないかと思います。

ですからビジネスというのは、
アートとは全く違う次元のものなんです。

その上で、
「アートとビジネスのバランス感覚」を、
考察していこうと思うわけですが、
ここでいうアートとビジネスというのは、
アーティスト本人がビジネスを手がける、
その様な意味で話していきますので、
どうぞご理解ください。

まずアートのビジネスを考える上で、
「アートの価値」を考えなくてはなりません。

そもそも西洋美術史上、
宗教的偶像や権威の象徴など、
その造形自体に価値をみていた時代が、
アートの価値として古典だと考えます。
つまりアートそのものに価値をみていた時代です。

その様な時代がアートにとって長く続くわけですが、
テクノロジーの進歩とともに、
アートそのものに価値を見出せなくなってきた、
そして産業革命や資本主義経済が進み、
アートの副次的価値の時代が、
いわゆる「現代アート」なわけです。

これはアートを「資産」として扱い、
資本をベースにした「資産価値」として、
アートに価値をみている時代です。

これは簡単にいうと、
アートを「金塊」の様に扱っています。

これが今、
現在取り扱われている「アートの価値」です。

その上で今私は何を考えているのかというと、
この「現代アート」の次の時代を考えているわけです。
つまり「ポスト現代アート」「ポスト現代美術」。
そしてポスト現代アート、ポスト現代美術を考える上で、
アートの価値というものを再定義しなければなりません、
そこで考えたのが「デリバティブアート」という概念です。

これは金融派生などをいう「デリバティブ」から、
ヒントを得たものです。

つまり芸術派生を意味する「デリバティブアート」、
という意味になります。

これは何を意図しているかというと、
アートの実態そのものに価値をみないという考えです。
今までの私のアート活動の総括にもなるのですが、
私は「宣言」をアート作品にしてきた事からも、
私がなぜ「デリバティブアート」を展開するのか、
その様な振る舞いも理解できると思います。

もっと踏み込んだ話をすると、
「アートによるアート外への影響」。
その様なものにフォーカスする時代だと考えていて、
私たちが展開する「狭山美学校」というものも、
それにあたると考え運営しています。

これはどういう事かというと、
アートというアウトラインをとる事で、
アートというアウトライン以外へ、
インパクトを与えるという事なのです。

これは例えば、
民宿狭山美学校というコンフォートゾーンを設け、
そこに展開しているアートを、
無意識に体験してもらう事につながります。

これは言ってしまえば、
「アート」という実態を放棄する事に他なりません。

「アートそのものまたは副次的価値を放棄する事により、
アートによる派生的価値を見いだす」、

その様な行為に他ならないのです。

ここで題目の話に戻っていきますが、
つまり従来はアートそのものとビジネスの、
ある種の同期を考えたが、
それは非常に困難であったわけです。

しかし私は、
そもそもそのアートを派生的に捉え、
アートそのものの価値を放棄する事で、
新たなアートの派生的価値を見出し、
アートの派生的ビジネス展開で、
アートとビジネスの同期を可能にしたのです。

今後この様な考えが広がると考えていますし、
私たちの考えが、
アートとビジネスを考える上での、
ロールモデルになると確信しています。

そして遂に「デリバティブアートの時代」がくるのです。

美学者母

ここから先は

0字

¥ 100

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?