私が考えるアートカルトとスピリチュアル系アート、そして私がそれを批判する意味。
この文章を書く動機になったことがありまして、
個人名を出すのは可哀想なのであれですが、
大阪大学というまぁ頭のいい大学を出られて、
建築関係でアートインキュベーターを名乗られている方。
その方とfacebookで議論していたわけですが、
あ〜まだこんな人いてるんだなぁ〜って感じで、
前世代的な日本人のアートの捉え方をしている方、
まさに僕がいう、
「アートカルト、スピリチュアル系アート」な人なわけです。
頭が良くてもアートってなると思考停止しちゃうんですよね。
これって、
例えばオウム真理教の人たちも同じで、
幹部は凄いインテリばかりだったじゃないですか、
京都大学卒とか、
全くあれと同じなんですよね。
基本的に宗教でいうと、
スピリチュアルを追求するとカルトになるわけなんですね。
そしてスピリチュアルとは何かというと、
「霊」とか「霊能」とか、
つまり「死後の世界」とか「輪廻転生」。
つまり「魂は死なない」という事で、
最終的にこの思想を突き詰めると、
「現世での殺人」ってのが「正義」になる。
かなり端折っていますが、
スピリチュアルがカルトになる所以です。
そして、
現実に日本では1970年代くらいから、
スピリチュアルブームが起こっていて、
その後、
1995年のオウム真理教の地下鉄サリン事件が起こります。
これはスピリチュアルをベースにした、
ポアによって人を殺すことを正当化したことにより、
起こったもので、
これはまさにスピリチュアルがベースなんですね。
スピリチュアルがカルトのベースになった事例です。
この他にも、
日本や世界であるカルト宗教のほとんどが、
このスピリチュアルな思想を持っています。
つまりスピリチュアルというのは、
実は非常に危険な思想なわけです。
その上でアートや美術、芸術においても、
この様なスピリチュアルを持ち出す人がいます。
特に日本はアートの古典が印象派ですから、
人間では概念的に捉えにくい、
第六感的なものを捉えようとする、
そしてそれを表現しようと試みる、
そんなコンセプトのアートが輸入されました。
この影響が日本のアートや美術、芸術には、
カルト的カルマとして洗脳されています。
日本のアートや美術、芸術の構造は、
もともと理解しにくい芸術構造をブラックボックスにし、
そのブラックボックスを、
ある種スピリチュアルに扱い、
その領域は「霊能者」ではないと観えないのだ、
というカルトに変貌し、
観えないものたちを「信者」とし、
観えるものを「信仰」する。
その様なカルト宗教となっている現状なのです。
しかし、
私などはそのブラックボックスの中身を、
論理的に理解し、
アートというカルト化した宗教を、
いかに破壊していくのか、
そして、
その霊能者を信仰する人たちを、
いかに「脱洗脳」するのか、
その様なアート活動を行なってきています。
宗教でもアートでも同じですが、
「一元論」は非常に危険であり、
「多元論」を原理や真理として話をはじめなければ、
それはもはやカルトでしかないのです。
美もまた多元的な概念なのです。
つまり日本人が、
印象派的「美」を一神教として「信仰」している。
その様な「カルト」から、
「脱洗脳」されるべきであり、
それは一つのコンセプトに過ぎないという、
メタ認知的視点を獲得し、
「美の自由」という「自由」を手に入れ、
「多元的認識」を、
全ての市民が共有することを目指しています。
冒頭に紹介しました、
大阪大学卒のアートインキュベーターの方は、
常に議論の中で、
「人知を超えた」ものへと議論を収束させるわけです。
それはある種「霊」や「霊能」とも言えます。
結局そこに収束させて、
それは概念化できない領域であるならば、
そもそもこの様な言語的コミュニケーションが、
そもそも無効化されますし、
全く意味のないものだと言っているのと同じなので
私はアート活動をしているアートの専門家として、
あくまで「概念として捉えようとする努力」を諦めません。
それを諦めて思考停止したところで、
アートは怪しいスピリチュアルなカルトになり、
また人々から遠い信仰対象にしかならないからです。
最後に、
アートは論理的に理解できるものです。
もしあなたがスピリチュアルなアートカルトから、
一刻も早く抜け出して、
知性的にアートを理解したいなら、
私はいつでもその様な用意ができています。
アートとは人間の営みであり、
それは理解できるものなのです。
この様な考えに共感される方々と共に、
日本のアートの未来を創っていきたいと考えています。
美学者母
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