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[014-2]教育と公共政策の狭間で(下)


こんにちは、まっちゃんです。

私自身、SNSの誹謗中傷により被害に遭ってしまった方を思って同じく加害者を叩いている人も、同じ穴の狢であることを忘れてはいけないと感じる。

戦争や紛争を「血で血を洗う」と例えることがあるが、実はSNSも毎日のように「血で血を洗」ってしかいないように思えた。
論議は次第に熱を帯びていき、気づけば批判に批判を重ね、論点が矮小化し、結局は枝葉末節、枝葉の先において、多くの人を傷つけながら何の解決も図られずに、立ち消えになる。


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「SNSでいじめるようなそんなやつは法で晒すべきだ!」という意見については、「そんなやつ」についての定義をどうするのか、その定義をもって当該判断は誰が責任をもって行うのか……など、議論の余地はあるものの、現段階においてはそれが、“建設的なケンカ”にすらなっていないように思えた。

「法で晒す」とカンタンに発信できるが故の論理の甘さ(怖さ)は大いにあると思うが、良心的に捉えたとして、本当は考える頭を持っている人がほとんどで、本来はこういった論理にはならないのでは?と私は思っている。


しかしながら、私事、公共政策を学んでいる最中、先週コテンパンやられた点が、この「良心的に捉えすぎる」という点についてだった。

つまり、「本来はこういった論理にはならないのでは?と私は思っている」のは、「本来はこういった論理にはならないのでは?と私は(勝手に良心的に)思っている」だけであり、良心的であるだけに過ぎないということであった。
これにはぐうの音も出ず、「それはそう」という感想でしかないのであった。

これまでは、「法で晒す」というのはまさに―あくまで私から見れば―加害者への「武力行使」を国に認可してもらおうとしているように見え、この問題を根本的に本当に解決しようと思っているか甚だ疑問に感じていた。それは、「法で晒す」という行為が「血で血を洗」っているとしか観ていなかったからかもしれない。

教育学に触れて編んできた私見を、一種のバイアスと一度捉え、異なる(公共政策の)立場から観察した場合、もし「法で晒す」ことに有効打があるとされる理由づけが見つかれば、「法で晒す」というオプション(選択肢)を実施するのが妥当かもしれない。
そもそも、「法で晒す」=「武力行使」という図式にどうしてなるのかについても、広く検討しなくてはいけないだろう。


そうなると、論議で批判に批判を重ねるのはさほど意味がなく、相手との交渉や合意形成、課題の解決を軸に、自らが捨てようとしているオプションについても出来る限りバイアスを排除しながら比較検討し、様々な意見と情報の共有をしていかなければならないと強く感じた。

それは、「暴力をふるってはいけません」という自明の理を、改めて「どうして自明の理であるのか」という点まで論理的に深堀りしたとき、また違ったオプションが現れるのだろうな、と思ったからだ。


難しい理屈はいらないが、良心的なアクションとは果たしてどういったものであるか、について整理して考えなければならない、非常に難しい問題のように思えた。


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今回、教育に触れて得てきた私見をベースに[014-1]を、いま公共政策を学んでいる過程で得た私見をベースに[014-2]を、SNSでの一件を事例にして綴ってみた。
(ちなみに、『教育と公共政策の狭間で』なんてタイトルをつけて2つの記事を作ったが、これは単に狭間でいまはオロオロしているよ、ということであって、壮大な他意は全くありません)

このような試みを行おうと思ったのは、前述した通り、大学院の講義のレビューでコテンパンにやられていたからであった。
自らが書いたものに批評を加えることは少なく、批評も加えにくいことから、この記事の作り方は、しっかりとさえやれば意外と効果的な手法であるように実感できた。


どちらの記事も走り書きのグダグダ原稿であるのが申し訳ないが、二重人格を無理やり発動させ、[014-1]を書いた後、それに「そらちゃうやろ」というツッコミを入れながら[014-2]を書いていった。

寝て起きたらこんなモノは人には見せられない、というのはよくあることで、[014-2]を書いた後の[014-1]なんかはその通りだったし、この[014-2]もまた、合理性を優先しすぎる面が拭えない、否定できないかもしれないと思ったりもした。


異なる観点を取り入れて事態を再観察することの難しさ、そして自分がいかにそこに辿り着けていないかを痛感した有益な試みになったが、書いたことでまた迷走が確定したので、引き続きアタックを行っていきたい。


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