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小説「真・人間失格」(♯8)

10.大学時代(1)

 かくして僕は、二○○四年の四月から大学生になった。同時に京都での一人暮らしがスタートした。部屋は合格後の二月末に両親と京都を訪れて、その次の日には決めていた。

京都は東京と比べて地方だけあって家賃が安く、僕は四万五千円ほどの家賃で分譲賃貸マンションを借りることができ、大学生にしては割と豪華な部屋で生活を開始することができた。もちろん、それはこの大学に部屋を借りて通う、他地方出身の学生みんながそうであった。僕が部屋を借りることになった場所は、北野天満宮や平野神社という歴史ある神社が並んでいる区画をやや奥に入ったところにあった。大学には自転車で5分も走らせば容易に着くことができる。小学校・中学校は徒歩で20分、高校時代は電車を駆使して1時間半かけて通っていたので、大学に入ってから初めて僕は「家から学校が近い」という状態に置かれることになった。さすがにこれほど家から学校が近いことに僕は我ながら戸惑いを感じてしまい、二年間、この物件で暮らしたのだが最後まで慣れることはなかった。

 身体も成長し切り、思春期はすでに終わりを告げてから始まるのが大学生という、最後の学生としての生活である。だからこそ大学生は、肉体的には大人であるのに大人とは世間から見なされない、生物学として見れば奇妙な立ち位置にある。精神が成熟しているとはまだまだ言えないが、子供というわけではない。深夜就労も許され、社会人のようにどこに行くにも自由になる。同級生の中には一足先に社会に出て働き始めた人たちも大勢いる。雑誌やテレビを見れば同じ年齢で活躍しているタレントやアイドルがたくさんいる。その一方で、大学生として大人でも子供でない中途半端な時間を過ごすことは、日本中の大学生が一度はその不安定さと矛盾に疑問を抱くことがあるのではないか。僕は、大学生活を通じてその疑問は常に頭の片隅から離れなかった。

 しかし、僕がもし大学時代を一言で表すなら、それは「遅れてやってきた青春」に違いなかった。大学生の間に僕は、いろんな女性との出会いがあった。齢30も半ばに差し掛かるので、その全てを鮮明に記憶しているわけではないが、接吻の味や感触、女性の肢体、その肌触り、喘ぎ声、一つに身体を結びあわせること、それを体験したのもこの大学生の時期だった。中学時代も高校時代も嫌われていたため、それまで僕は女性に全くと言っていいほど縁がなかったし、僕は一度も性行為を経験しないまま二十代に入ってしまう、とほぼ諦めていた。しかし僕は、何を思ったか、大学に入学後は、演劇サークルや映画サークルに興味を持ったものの、入会することはなく、軽音楽サークルに入会した。演劇や映画でそれができないというわけではないが、僕は一年間、たった一人で過ごした時期を経て、新しいことを通じて人と繋がりたかったようだ。僕に音感などというものはなく、楽器は全くと言っていいほど不得手であったため、軽音楽サークルに入るという選択は、自分の将来や本来の趣向を鑑みれば間違った選択だった。しかし僕は、「間違っているかもしれない」と思いながらも入会し、初心者であることを良いことに「どんな楽器でも始められる」とアピールし、ベースギターとして、女性ボーカルをフーチャリングしたバンドを結成した。バンドは、ギターを担当した一人は二回生(ただし現役入学者だったために同い年)、ドラムとボーカルは僕と同じ一回生だった。ドラムも一年浪人して大学に入っていたため、ボーカル以外は全員がもともと同じ学年だった。バンドを結成して複数回練習を行い、全員の意気が統合し始めた頃だった。サークルの会合の帰り道、その女性ボーカルが、僕の家に寄ってカバーする予定だったバンドの曲の歌詞を書き写しに来ることになった。当時は今のように音楽が配信を通じて簡単に手に入れられるような時代ではなかったため、家が大学から近かった僕が、カバーするバンドのCDを自宅に保管する役目になっていた。期せずして彼女を招き入れることになってしまった僕は、彼女が部屋の玄関をまたいだ瞬間から、少しも彼女が僕と距離を空けようとしないことに、「もしかしたらこの後……」という気持ちがよぎった。

 買ってからまだ一ヶ月の汚れていない部屋の真新しいベッドに僕は横たわりながら、僕は彼女が歌詞を書き写す様子を見つめていた。

書き終えた彼女を、僕は慣れた口ぶりで、しかしその裏腹に心臓は激しく脈打ちながら、

 「おいで」

 と言ってみた。彼女はいやらしく、女性なのにどこかオスめいたケダモノ、しかしそこには艶かしさもある決して下品ではない、情欲をかきたてるような表情を浮かべて、嫌悪感一つ見せずに僕の隣に寝てきた。それなりの経験がある大人であればこの状況なら、すでに相手は自分を受け入れていると判断しても良いのだが、まだ一度も性行為に及んだことのなかった僕は、この時点ではまだ拒否をされるのではないかという疑問を拭えず、ベッド上で会話が始まってからも、心臓の鼓動と衝動を、生唾を飲み込んで抑えながら、拒否と受容の絶え間ないシミュレーションを頭の中で繰り返していた。やがて、僕は一つの解法を見出した。それは、まずは彼女がこちらに向けている側の頰に口づけをしてみることだった。

 眠気と男女間の駆け引きが終わりに近づき、会話が途切れがちになってきた。この数分間のうちに先に進まなければ、二度と次の機会は訪れない。そして会話は途切れた。彼女が終わらせたのか、僕が解法を試すために終わらせたのか、それはどちらだかわからない。そんなことはどうでもよかった。僕は、目を閉じて眠る彼女の左頰にそっと口を付けた。接吻というよりも、口を載せてみたという感覚の方が近い。彼女は、嫌がらなかった。口を離すと、彼女は無言のまま、気づいていないふりをしていた。

 「ごめん、しちゃった」

 そんな僕の天邪鬼な言葉に、彼女は、

 「するなら言ってや」

 と地元の関西弁で答えた。やはり僕は彼女に受け入られていた。僕は彼女の応答には答えず、再度、今度は確実に、彼女の頰に接吻をし、口触りの良い十代の肌を、顎の線をなぞるように目尻まで、下から上へと舐めていった。目尻にたどり着くとまた顎まで舌を滑らせ、これを繰り返し、徐々に舌を滑らせる範囲を狭くしていった。時間にしてわずか数十秒。この数十秒の間、彼女はなんの反応も見せなかった。しかし、確実により直接的な行為を望んでいることは、その熱くなってきた身体から感じることができた。

 僕は彼女の名前を呼んだ。その言葉とほぼ同時に身体を起こし、「うん?」という彼女の返事が耳に入ってきたのを認識した瞬間、その返事とは関わりなく、彼女の口に接吻をした。すぐに唇を離すつもりが、口をつけた途端に彼女の舌が僕の口内に侵入してきて、僕たちはそのまま舌を絡ませあった。この彼女の行動は予想外だった。彼女は僕にもっと早く接吻をして欲しかったのだ。僕は彼女の大胆な舌使いに応えるように、彼女を横から覗き込むような姿勢から、彼女にまたがるように変え、二度目の接吻を行った。今度は僕から舌を入れ、自分からしたにも関わらず受け身になっていた直前の接吻とは全く異なった接吻になった。もっと深く、息継ぎのために時折唇を離しながら。そして僕の右手は、自然と彼女の小ぶりの胸の片方の乳房を包むように、服の上から触れていた。左手もいつの間にか右手を追い、もう一方の乳房に触れた。初めて触れた乳房は、服の上からとはいえ、想像よりも固かった。僕がその感触を撫でるように確かめていると、彼女がどことなく、眉をひそめた。僕は気づいていないふりをし、彼女の着ていたシャツのボタンを外そうと、襟に優しく両手を伸ばした。

 「あかん」

 彼女が拒否反応を示した。

 「え?」

 「今日は……あかんねん」

 「お願い」

 「あかん。今日は身体がダメなんよ」

 形式ではない。本気なように見えた。僕はこれまでにも何度かセックスの経験を直前で逃していたことがあった。いたたまれなくなった僕は、たまらず再度彼女に接吻をした。

そして、

 「俺たち、付き合おう」

 と接吻をする直前は心にもなかったことを言っていた。とはいえ、この時は本気だった。

しかし彼女は無言だった。

 「…………」

 僕は、この無言の返事を挽回したかったのか、もうそれ以上見たくなかったのか、短い接吻を何度か試みた。彼女は全て受け入れてくれたが、それでも交際に対する返事、セックスに対する返事は変わらなそうだった。

 「今日はダメ?」

 「うん」

 「……そうか」

 そっと彼女を起こした僕は、

 「バス停まで送るよ」

 と言った。拒否はされたが、形式だとは感じられず、一年間の孤独な生活から抜けてまだ1、2ヶ月で、このような機会が現実に訪れるとは思っていなかったため、僕はある意味満足していた。最後にもう一度だけ、起きた状態で抱き合いながら、彼女に覆いかぶさるように僕は、接吻をした。この日した接吻の中で最も熱く、色々な感情が混ざり合った接吻になった。彼女は両手で僕の背中をそっと支えてくれた。


読んで頂き誠に有り難う御座います! 虐げられ、孤独に苦しむ皆様が少しでも救われればと思い、物語にその想いを込めております。よければ皆様の媒体でご紹介ください。