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I'm a genius

恥ずかしい限りだけど、自分のことを天才だと思っていた時期があった。

いつかというと、中学時代。

成長期とトレーニングがマッチして、走れば走っただけ強くなった。

試合に出ても、周回を重ねていくうちに周りが脱落していく中、平然と走り続けることができた。

俺みたいな天才がインターハイに出て、箱根駅伝に出て、実業団選手になるんだ

って本気で思ってた。

けど。

それが自惚れだと気がつくのに時間はかからなかった。高校入学後、思うように走れないことが多くなった。1年後にはこれまで名前も知らなかったようなやつらにどんどん抜かされていった。周回遅れになる選手の気持ちがわかった。

大学にくると、就活や他大学のゼミとの合同ゼミで自分より優秀な上位大学の学生と出会うことが多くなった。

合同ゼミでは必死に考え抜いた研究を発表しても、容赦ない質問攻めにあって、研究自体が粉砕間際になることもあった。インターンで会う学生は、志望業界もあって理系の学生が多く、僕が知らない世界をたくさん知っている。

上位大学の学生はなにもしないでそこにいるわけではなく、大学に入るまでの勉強はもちろん、入学後もレベルの高い集団で結果を出すための努力を怠っていない。学歴フィルターは概ね正常に機能することがわかった。

あとは多くの大学教授の先生との出会い。

幸いこれまで所属してきた学校の中での成績は悪くはなかったから学業においては、さほど「できない」自分と向き合うことはなかった。それがその研究に生涯をかけて取り組んでいる大学教授の先生と講義やゼミで関わるようになると、いかに自分の視野が狭く、知見がなく、頭が悪いかを思い知らされる。

あと、彼らは基本的に自分の研究を突き詰めるという形で飯を食ってるから何の分野であれその道のスペシャリスト。何かを徹底的に究めている先生たちの姿を見て、自分がいかに中途半端な人間だったのかを知った。

そんなことがあり、大学生の今、自分は天才だなんて思うことはなくなった。現実に打ちのめされたのだ。でも、僕はそれが挫折だとは思わない。なぜなら、他者との関わりを通じて、本当の自分の能力を理解できたから。

僕は自分を完全に客観視することなんて無理だと思ってる。なぜなら、自分を自分で観測するときには主観を離脱できないことによるバイアスが生じるから。そうであるならば、自分ではどんなに客観的に視てると思ってても、それは「主観」の領域を抜け出すことのできていない「主観を内包した客観」だということになる。

それゆえ、正確に自分を評価してくれる他者の存在は貴重であるが、他者は思ったことをそのまま伝えてくれるわけなどない。ここにジレンマが生じる。

日本人は、オブラートに包んで伝えることを美徳とする傾向にあるから、ありのままの評価を伝えたくれる人はめったに現れない。他者ゆえに、完全なる客観を伝達することができるにも関わらず。

でも、中には、

「ここが良くない」

「ここは良かった」

と、思ったことをそのまま伝えてくれる人もいる。

相手を咎めることは非常に疲れる。多様な価値観を持つ人のと出会いで、何が正義で何が悪なのかよく分からない僕は、自分の中の価値観を押し付けてしまうことが嫌で、かつてと比べて、自分が「悪い」と感じたことがあっても、それを咎めることができなくなっている。先程、正確な伝達をもたらさない他者を批判しておきながら、自分がその典型例なのだ。

それでも、相手の成長を思い、熱心に感じたことをフィードバックしてくれる他者は必ずいる。僕の場合はゼミの先生やコーチ。どちらも厳しいことをズバズバ言ってくれる。

そういった方々は人生においてのキーパーソンであり、大切にしなくてはならないと思う。

2019年も多くの方との出会いがあって、わかり合えない人もすれ違う人ともたくさん出会ったけど、そんなことがあったからこそ、自分のことを思ってくれる人の存在が際立つ。来年も多くの出会いを大切に、人として大きくなりたい。

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