#PICU 見て思う❌告知❌本音に安堵?

私が発病して診断が確定するまでは確か週単位の時間を要した。

その間入院していて、急に現れた身体の異変で歩けなくなり、トイレも介助が必要。

ベッドから立たせてもらうのも、立つことすらできなくなったらベッド上で下の世話まで他者にお願いしなければならない。

ついこの前まで走ってたのに、え?

正直変化に頭がついていかないよね。

自分で何度も「実は大丈夫なんじゃない」と歩こうとしては転び、這って移動しようとして凄く時間がかかり……

で、入院中に立つことも出来なくなり……

結構急にバタバタと色々起きてしまった。

そして、検査では決定的な原因が分からずに次々と検査をこなして行った。

ちょうど相部屋の患者さんの一人がキリスト教徒で、聖なる水?をわけてくれた。(もちろん無償で)

それを飲むと効くと聞いた時は半信半疑だったけれども、当時神様は存在しないと堅く信じていた私ですらその水を飲むことを検討するくらい、藁にも縋る思いだ。

一連の検査の一つで著しい異常が見られた。それは珍しいもので、生で観察できるのは貴重だったよう。

検査に立ち合っていたのは中間医だったけれども、その医師が急いで研修医に電話をした。

「貴重な経験」とPHSで伝えておられたのを覚えている。

その検査結果を元に病名が分かり、確定診断するための必要次項につながった。

その後様々な検査結果を元に病名の告知と治療方針が私と家族に伝えられた。

この時未成年だった私でも、病名が分かったことで安堵した。

珍しい疾患で治療法も確立されていなかった。それでも、未知という闇から確定診断が引っ張り出してくれた。

状態は変わらない。

病状は悪化しているし、治療も結構大変なものになる。

でも、私にとっては「分からない」状態よりもせめて「敵が認知できる」という状態がありがたかった。

疑心暗鬼の状態から目的に向かう姿勢に変わる原動力になった。

昔の日本で悪性の場合には患者に告知しないのが当たり前だった時代の話を聞いたことがある。

担当医が代わっても、別の科にまで前主治医を訪ねて来た患者さんの話。

「私は癌なんでしょ? 先生お願いします。本当のことを教えてください! 自分の身体のことだから分かります。癌なんですよね?」

当然、前医の口から何も言えるわけがない。

「今の主治医に聞いてください。」としか言いようがない。

でも、これで100%確信するだろう「自分は癌である」と。

そして、周囲の人々が自分に嘘をつくことに絶望したかもしれない。

人によっては、こんなに気遣うほど愛されてるんだ、と感謝する人もいるようだけれども、結局皆が必死に隠している病名は患者にバレている。

子供と大人は違う!

でも、本当にそうだろうか?

米国の研究では、告知をしないことで医療従事者との信頼関係にヒビが入ってしまい、むしろ悪影響だから、小児にも告知することが推奨されるようになった。

また、長期間の闘病をしていて死期が近いお子さんが「僕・私は死んじゃうけど、お母さんが悲しむから」と知らないふりを演じる子もいる。

昔の小児病棟では、急変して亡くなった子供のお友達には退院したと告げていたそう。しかし、子供は異変に気がつく。

同じ病棟のお友達の死を告知しないことの方が闘病中の子供達の心に大きな傷を残すことが分かった現代では、子供達に真実を話すようになった。

もちろん、伝え方は様々だ。幼い子供ならば「お星様になったんだよ」と伝え、もう少し大きい子には「天国に行った」と伝えるかもしれない。いずれにせよ、きちんと「亡くなった」ということが伝わるように言語化することが当たり前になって来た。

PICUで心不全末期の児童に自宅に帰れる理由を「死ぬため」ではなく「感染症ならば家で治療できるから」と伝えるシコタ医師…… これはもっと複雑だろう。

死ぬためではなく、「一時退院で心と体を充電するため」これは十分あり得そうな理由だ。おそらく、シコタ医師もそれを願っているのではないだろうか?

しかし、頻繁にVT・VF(循環停止)で蘇生されており、死を意識している児童ならば…… いや、死を意識していようがなかろうが、子供であろうと大人であろうと「医療に生かされている」というのは分かるだろう。

在宅医療へと移行する大人が、病院に見放されたと感じる場合があると聞いたことがある。

加えて、死の間近であれば「死の必然性」に気がつくのではないだろうか?

自分の現状は身体で感じるから分かる児童に対して、シラを切るのは果たして本当にその子のためになるのだろうか?

「病名の告知ならば、治療があるから前向きになれる。余命の告知とはわけが違う。」

確かに、そうかもしれない。

「死ぬ」というのは怖い。

いや、ある程度の恐怖心を感じ、でもそれだけに満たされるわけではないと思う。

これは同時に「死」という誰も生きて経験談を語ってくれない未知の事象に対する恐怖なのかもしれない。

何を信じていようと、死自体なのか、今の自分が終わることに対してか、様々な葛藤を抱くのが当然の事象なのだろう。

自分は死ぬと確信した時により安らかな気持ちになれるのは、周囲が真実を打ち明けた時と隠した時のどちらだろう?

その答えは分からないし、ケースバイケースだろう。

しかし、だからこそ、考えるべき問いではなかろうか。

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