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エッセイ『3人を生きる』

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一卵性三つ子として生まれた著者が、三つ子として生まれる腹の中から20歳までの、三つ子の一人の視点から書かれた記録です。特殊な環境、「私」として存在することへの葛藤・焦り、三つ子と… もっと読む
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3人を生きる-アナタの知らない三つ子の話- vol.0 プロローグ

 まず、はじめに。  私を、私たちを産んでくれた母に感謝します。  そして、私たちを育て、私たちというものを形作ってくれた全ての方々に感謝します。  私たちは、今もなお、胸の奥がトクトクと脈打つのを感じ、時に悲しみに涙し、時に喜びに涙することの幸せを噛み締めることができている。  「生きる」ということを普段深く考えることもせず、当たり前と感じているという感覚の中で過ごしている。  「奇跡」というものは、存在するのか。  存在するでしょう。  少なからず、私はそう思っている。

3人を生きる-アナタの知らない三つ子の話- vol.1 三つ子、誕生前の絶望

 私たちが生まれたのは、平成10年(1998年)11月25日の朝、8時39分から40分のこの1分間。3人は、この1分の間に、母のお腹から次々に取り出された。  未熟児よりも更に小さい超未熟児として、初めて呼吸をした。  私たちが取り出されたのは、奇跡だ。奇跡というのには、理由がある。何故なら私たちは、取り出されないかもしれなかったのだから――。  母の妊娠が分かって、病院に初めて行ったとき、先生は言った。 「赤ちゃんは一人ですね」  母は少し経って、別の病院に行った。そのと

3人を生きる-アナタの知らない三つ子の話- vol.2 産むか堕ろすか

 ――生まれたとしても、知恵遅れで1年生きられない。  父と母は泣きながら帰った。自分の子が、自分たちの思う「普通」に生きられない。何度先生に言われた言葉を反芻しても、傷は癒えることなく、ただただ深くなっていくだけだった。 「本当に染色体異常かどうかは、羊水から検査することはできます。が、私は検査しないことをお勧めします」  もし、本当に染色体異常だったということが分かったとしても、母は、「普通」に生きられないと分かった3人を産まれるまで身籠らなければならない。その間、母

3人を生きる-アナタの知らない三つ子の話- vol.3 母の決心

 手術着のまま、先生は母のエコーを撮った。 「ほら。心臓がちゃんと3人共動いてますよ。指もしっかり5本ありますよ」  先生は、私たちがちゃんと生きていることをモニターを指しながら母に示していく。  母はもう一度、先生に悩みを打ち明けた。 「いいですか」  先生が口を開いた。 「中絶可能な期間を過ぎてしまえば、脳のない子を除いて、どんな子でも産まなければなりません。肝臓がない子も心臓がない子も腎臓がない子も。この子たちも例外じゃないんです。それだけは忘れないで」  産むべきか

3人を生きる-アナタの知らない三つ子の話- vol.4 三つ子誕生と奇跡

 産まれて直ぐの頃、私たちにはまだ名前がなかった。代わりに、足の裏に1番、2番、3番と書かれていたらしい。つまり、「1番ちゃん」「2番ちゃん」「3番ちゃん」という呼び方だったということだ。  この番号呼びの間、曾祖父母から母の姉まで、皆で考えた。由来なんてない。響きと漢字を思いついたら、言い投げ、その中から、父と母は選んでいった。  皆で出した響きに漢字を当てていく。特に意識はしていなかったらしいが、選んだ名前は皆、画数が一緒になったらしい。無意識のうちに、DNAだけでなく、

3人を生きる-アナタの知らない三つ子の話- vol.5 平等と競争

 カウントダウンが止まってから、私たちは大きな病気を患うこともなく、体が小さいながらもすくすくと育った。  さて、前回までは、私たちが、生きる道を歩み始めるまでの話だ。  ここからは、ある一人の視点から見た三つ子と自我の確立の話を始めよう。  アナタが三つ子にどのようなイメージを持っているかは定かではないが、三つ子と言っても、勿論、全てが同じわけではない。似ているところと異なるところはある。  背丈も体重も顔の特徴も体型も声もほとんど同じであるが、物事の捉え方や考え方、嗜

3人を生きる-アナタの知らない三つ子の話- vol.6 三つ子から私と2人

 三つ子の中でも一番と言っていいほど、私は競争心が強かったように思う。  三つ子の中で焦燥感を抱いてから、私は、勉強を頑張るようになった。小学から中学にかけては、何より3人の中で最も点数が良くないと気が済まなかった。一番良い点数でない時は、傍から見たら笑えるくらいに落ち込んだ。  そんな私に母は、井の中の蛙でいてはならない。3人の中で一番であってもなくても、それに一喜一憂してはならないのだ、と言い聞かせた。一番でなくとも気にするな、と。それでも、私は3人の中で最も勉強ができる

3人を生きる-アナタの知らない三つ子の話- vol.7 競争心と個性

 中学はとても小さかった。私の学年は3年に上がった時点で57人しかいない小規模校だった。クラスは2クラスだけ。  1年と2年は他の2人のそれぞれと同じクラスになり、3年は自分一人だった。  入学当初、周りは三つ子という存在を珍しく思っては、事あるごとに比較した。勿論、悪意などない。単純に差が目に入るのだ。  1年の時は、三女と同じクラスだった。三女は、3人の中で最も明るい性格のムードメーカーで、いつも周りを笑わせていたように思う。足も速く、毎度陸上大会では短距離走選手として参

3人を生きる-アナタの知らない三つ子の話- vol.8 羨望と劣等感

 高校は、勉強への執着の剥がれか、推薦入試を選んだ。  勉強をしない代わりに、作文や面接を担当教員に協力してもらいながら、力を入れた。  私は普通科に入学し、2人は、美術科に入学した。  この高校の生徒なのだと実感が湧き始めたとき、入学前の志望校選択のときのことを思い出しては、2人の強さを強烈に感じていたのを今でも覚えている。  2人が美術科を志望しているのを知った両親は、あまりいい顔をしなかった。職があるのか、2人の道が狭まりはしないか。何より、両親にとって、美術の道は未

3人を生きる-アナタの知らない三つ子の話- vol.9 努力ともがき

 小学校の自分と高校の自分を比べると、2人と自分自身の捉え方が随分と変わったように思える。  小学校の頃なら、私が一番、という優越感。一番優秀なのだという心の余裕と子供ながらの自信。  しかし、高校の私にあるのは、私が一番の落ちこぼれ、という劣等感。何も光を持たぬ凡人という虚無感。  こうやって、文字にしてみると、ほぼ真反対じゃないかと笑いさえこぼれてくる。  しかし、実際にそうだったのだ。私は自分を好きになろうとする私よりも何も持っていない自分と思い嫌う自分の方が大いに顔を

3人を生きる-アナタの知らない三つ子の話- vol.10 三つ子からの解放

 高校3年間、私は取り憑かれたように、ひたすらノートやPCのWordに、自分の脳内を書き起こしていた。  その間、2人は美術に取り憑かれていた。油絵、デザイン画、写真、木工、陶芸、イラスト。作風は2人で全く違ったが、どれも胸が締め付けられるほど素敵だと思っていた。  別々のものに没頭し、それぞれが他者の評価を受けていた。  相変わらず、私は評価に飢えていて、未だに、私というものは、評価が全てな愚かな考えを拭えずにいた。  そんな愚かな私は2人が羨ましかった。  周りに作品を見

3人を生きる-アナタの知らない三つ子の話- vol.11 三つ子と「私」

 ――2人と手を離してみたらどうだ。  私は笑顔を顔に貼りつけたまま、首を傾げた。 「これは、2人にも話したことがあるんだけどね。今まで3人は仲良く手を繋いでいたんだよ。だから、他の2人がしていることとか考えていることは、しっかり見えるし、いろいろと影響を受ける」  確かに、2人がしてきていることは、うんざりするほど見てきた。見てきていろいろ考えた。 「でもさ、それって、その3人の中にないものには手を出しにくいんだよね」  言葉の意味がよく分からない。 「手を繋いでいるから

3人を生きる-アナタの知らない三つ子の話- vol.12 三つ子の「私」と「私」

 私の本格的な受験対策が始まったのは、2人がAO試験に合格し、進路を決めてからだった。  春頃からずっと芸術系の大学しか考えてなかったが、視界が開けた私が、第一志望校を決めるのは案外早かった。  担任に紹介された国立四年制大学。心理学もしたいが、地域創生も学びたい、それから、推薦試験を受けられる大学はないかと言った私に、担任が提示したのは、四国にある私には所縁のない地の大学だった。  元々県外に出ることに躊躇いはなかった。私は、その大学に合格することだけを考え、推薦入試の対策

3人を生きる-アナタの知らない三つ子の話- vol.13 1つというもの

 面接練習を快く受け入れてくれた先生は、まず、私がこれまで書いてきた試験対策を把握するのに、大学ノートの中に目を通した。  真剣に目を通しながらも、「なるほどね」「へえ」と時々リアクションを私に向けながら、どんどんページを捲っていく。  最後まで、読み終えた先生は、顔を上げてこう言った。 「三つ子のことは、何も言わないんだね」  心臓を直で撫でられているような感覚がして、一瞬だけ眉間に皺が寄った。 「だって、せっかく三つ子だったら活用すべきじゃないかな。小中高一緒で、ほとんど