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3人を生きる-アナタの知らない三つ子の話- vol.3 母の決心

 手術着のまま、先生は母のエコーを撮った。
「ほら。心臓がちゃんと3人共動いてますよ。指もしっかり5本ありますよ」
 先生は、私たちがちゃんと生きていることをモニターを指しながら母に示していく。
 母はもう一度、先生に悩みを打ち明けた。
「いいですか」
 先生が口を開いた。
「中絶可能な期間を過ぎてしまえば、脳のない子を除いて、どんな子でも産まなければなりません。肝臓がない子も心臓がない子も腎臓がない子も。この子たちも例外じゃないんです。それだけは忘れないで」

 産むべきか堕ろすべきか――。
 未だに解決しない事実の中で、祖母が口を開いた。
「なんとかならい。そのときは、2人で育てたらいいわい」
 どこか吹っ切れたような、腹を括ったような、そんな言い様だったと母は受け止めた。
 事実の前に立つ母の脚の震えが少し治まった。

 出産予定は2月だった。しかし、私たちは何を思ったのか、早く外に出たいと訴えた。腹の中で終えたくないと。出産は11月になった。
 11月25日の朝、帝王切開によって、8時39分からの1分間に次々と取り出された。私たちは、生きて初めて外の空気をしっかりと肺に溜めることになった。
 しかし、1人だけ直ぐに泣かなかった。
 最後に取り出された三女だ。羊水を飲み過ぎたらしい。先生たちの対応により、三女は少し遅れてわんわん泣いた。
 3人とも1400g以内という小ささで産まれた。小指サイズの太ももに、爪楊枝3本分の指。1つの保育器に3人がすっぽりと入るほどだった。
 今にも壊れそうな小ささで、1人で使うには大きい保育器の中、私たちは、一番太い血管がある頭に針を刺して点滴を行い、吸う力がないため、直接胃に届けるように、鼻からチューブを通して、ミルクを取った。一回の摂取量は、わずか1ml。箸の先にちょこんと付けただけの量であった。
 数ヵ月、私たちは保育器の中で過ごすことになる。

 母の退院時、先生は母に告げた。
 ――貴女は強かった。
 その言葉を母は嬉しく思った。しかし、母は首を横に振った。
 強くなんてない。私は、弱かったから産めたんだ。
「小心者なだけです」
 そう母は言った。

 この日、産まれた喜びの始まりと共に、新たな悲しい試練が始まった。
 産まれた3人の脳室内嚢胞はまだ消えていない。
 カウントダウンはまだ止まっていない。

#エッセイ #日記 #記録 #三つ子 #3人を生きる

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