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3人を生きる-アナタの知らない三つ子の話- vol.5 平等と競争

 カウントダウンが止まってから、私たちは大きな病気を患うこともなく、体が小さいながらもすくすくと育った。

 さて、前回までは、私たちが、生きる道を歩み始めるまでの話だ。
 ここからは、ある一人の視点から見た三つ子と自我の確立の話を始めよう。

 アナタが三つ子にどのようなイメージを持っているかは定かではないが、三つ子と言っても、勿論、全てが同じわけではない。似ているところと異なるところはある。
 背丈も体重も顔の特徴も体型も声もほとんど同じであるが、物事の捉え方や考え方、嗜好に異なりはある。大きなカテゴリーで分けた場合は、同じところに属していても、その中で小さなカテゴリーを作って分けていくと、全く違うカテゴリーに属すなんてことはよくあった。
 共通点が多くあると、人はそれらの中にある相違点に目がいく。相違点を見つけ出しては指摘するというのは、三つ子に限らず日常的によく見られる光景である。
 しかし、両親は私たちを必要以上に比べるということがなかった。学校での成績が三つ子内で全く違ったとしても、「この子はこれができるのにあの子はできない」「あの子の方が優れててこの子は劣ってる」なんてことは、全く言わなかった。
 身近で比べられるという環境が特になかったため、三つ子内で競争するようなことはあまりなかった。比べられないのなら、誰かに損得が出ることはない。利益不利益が発生しないのならば、競争する必要性はない。
 2人が絵を描いている。私も描いてみよう。1人が運動を楽しそうにしている。私もしてみよう。上手い下手など関係なかった。
 しかし、周りが幾ら比べることがなくとも、比較可能な視覚情報は嫌でも入ってくる。
 初めて、成績表というものをもらって、親戚に見せたとき、三つ子にとっての事件は起きる。
 親戚は、私たちの成績表を見比べて、順位を付け出した。
 私たちという一括りから、私という1人を見られた瞬間。
 それ以降も、両親は私たちを比べるようなことはしなかった。
 しかし、いつからか、私たちは、勉強、運動、芸術、コミュニケーションとあらゆる場面で競争をするようになった。
 目の前にいるのは、自分に似た2人ではない。自分と異なる2人なのだ、と漠然と感じ始め、胸の奥で訳の分からない焦燥感が少しずつ少しずつ溜まり始めた。

#エッセイ #日記 #記録 #三つ子 #3人を生きる

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