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【古代史 基礎講読 07】海越えて新たな神がやって来た ~仏教の公伝~

九條です。

お盆も近いですので、今回は我が国に仏教が伝来した当初の記録を読んでみたいと思います(以下、本文約5,300文字/現代語訳のみで約1,700文字)。今回は末尾に「おまけ」(夏休みプレゼント)付きです。^_^

今回の講読(原文)はそれほど長いものではありませんが、やはり「読み下し」以下は文字数が多くなってしまいますので、お時間がおありの時にでもご覧いただければと思います。「現代語訳」だけをご覧いただいても構わないです。

さて、我が国に仏教が伝来した(公伝した)のは宣化天皇三年[01](538年)または欽明天皇十三年[02](552年)とされています。

ここでは『日本書紀』による欽明天皇十三年の記録を読んでみたいと思います。

なお、上記の年代(宣化天皇三年や欽明天皇十三年)は、あくまでも「公伝」すなわち公に伝わった(と当時のヤマト政権がそう認めた)とされている年代であり、それ以前に渡来系氏族たちによって「私伝」としてすでに仏教は我が国に(細々とではあるが)入ってきていたであろうと考えられています。

この時代(飛鳥時代前期)に我が国に伝わった仏教とは、南都六宗のうちの三論宗さんろんしゅうの断片(一部分)であったと考えられています。この時の三論宗の法灯は我が国ではすでに途絶えてしまい、現在まで伝わっていません。

現在、現存している我が国における最古の仏教宗派は南都六宗のうちの法相宗 ほっそうしゅうで、この法相宗は飛鳥時代後期の大化改新前後(650年前後)から数次にわたって我が国に伝えられました。

では、早速『日本書紀』における仏教伝来当初の記録を読んでみたいと思います。^_^


【原文】
『日本書紀』巻第十九
◎欽明天皇記

〔欽明天皇十三年〕
冬十月、百濟聖明王更名聖王、遣西部姫氏達率怒※口+利(口へんに利)斯致契等、獻釋迦佛金銅像一躯・幡蓋若干・經論若干卷 別表 讚流通禮拜功德云 是法於諸法中最爲殊勝 難解難入 周公・孔子尚不能知 此法 能生無量無邊福德果報 乃至成辨無上菩提 譬如人懷隨意寶・逐所須用・盡依情 此妙法寶亦復然 祈願依情無所乏 且夫遠自天竺爰※水+自(さんずいへんに自)三韓 依教奉持無不尊敬 由是 百濟王・臣明 謹遣陪臣怒※口+利(口へんに利)斯致契 奉傳帝國流通畿内 果佛所記我法東流

是日 天皇聞已 歡喜踊躍 詔使者云 朕從昔來 未曾得聞如是微妙之法 然朕不自決 乃歴問群臣曰 西蕃獻佛 相貌端嚴 全未曾有 可禮以不 蘇我大臣稲目宿禰奏曰 西蕃諸國一皆禮之 豐秋日本豈獨背也 物部大連尾輿・中臣連鎌子同奏曰 我國家之王天下者 恆以天地社稷百八十神 春夏秋冬祭拜爲事 方今改拜蕃神 恐致國神之怒 天皇曰 宜付情願人稲目宿禰試令禮拜

大臣跪受而忻悅 安置小墾田家 懃修出世業爲因 淨捨向原家 爲寺 於後 國行疫氣 民致夭殘 久而愈多 不能治療 物部大連尾輿・中臣連鎌子同奏曰 昔日不須臣計 致斯病死 今不遠而復 必當有慶 宜早投棄 懃求後福 天皇曰 依奏 有司乃以佛像 流棄難波堀江 復縱火於伽藍 燒燼更無餘 於是 天無風雲 忽炎大殿

是歳 百濟 棄漢城與平壤 新羅 因此入居漢城 今新羅之牛頭方・尼彌方也 地名  未詳

※口+利(口へんに利)
※水+自(さんずいへんに自)

(国史大系版『日本書紀』欽明天皇十三年冬十月条[03])


【読み下し】
『日本書紀』巻第十九
◎欽明天皇記

〔欽明天皇十三年〕
冬の十月かむなづき百済くたら[04]の聖明王しゃうみゃうおう[05]〔またの名を聖王しゃうおう〕、西部姫氏せいほうきし達率たつそ口+利(口へんに利)斯致契しちけいらを遣して、釈迦仏の金銅くがねあかがねみかたち一躯ひとはしら幡蓋はたきぬがさ若干そこばく経論けいろん若干そこばくの巻を献らしむ。ことふみにあらはして、流通礼拝功徳るつうらいはいくどくめてまをさく、

是ののりもろもろのりうちに最も殊に勝れるを為して、解くに難く入るに難し。周公・孔子、尚ほ知ること不能あたはず

此ののり、能く量り無き、かぎり無き福徳果報を生みて、乃至すなはち無上菩提を成弁す。譬へば人のこころまにまに宝を懐くが如く、かならず用ひる所をへるはことごとこころに依りて此の妙法[06]の宝、亦復また然り。

祈り願ひてこころに依らば所乏ともしきこと無し。た夫れ遠く天竺よりここ三韓みつのからくにに※水+自いた(さんずいへんに自)りて教えに依り奉持もちまつりて尊び敬ざること無し。

是の由に、百済くたらの臣めい、謹みて陪臣口+利(口へんに利)嘲斯致契しちけいまだして、みかどみくにに伝へて、畿内うちつくに流通 るつう[07]かしめて、果して仏の所記しるせる我がのり、東にかしめまつらむ。

是の日。天皇すめらみこと聞こしへて、歓喜よろこ踊躍ほとはしりたまひて、使者つかひに詔をりたまはく、

われふるきよりこのかた、未だ曽て如是微妙たへにあるのり聞かず。しかあれどわれ、自ら決めず。

りたまふ。すなわ群臣まへつきみたちめぐり問ひてはく、

西蕃にしのくにたてまつりし仏、相貌かほかたち端厳きらきらしくありて、
またく未だ曽て有らず。うやまふ可きや もちいることあらじや。

とのたまへり。蘇我大臣稲目宿祢そがのおほおみいなめのすくねまをしてまをせらく、

西蕃にしの諸の国、一皆ことごとく之れをいやびて、豊秋日本とよあきつのやまとに独り背くや。

と、まをせり。物部大連尾輿もののべのおほむらじをこし中臣連鎌子なかとみのむらじかまこともまをしてまをせらく、

我が国家くにいへおほきみのおさめたまふ天下あめのしたは、つね天地あめつち社稷やしろ百八十ももあまりやその神を以ちて、春夏秋冬、祭りをろがむを事とせり。まさに今改めて蕃神えみしのかみをろがまば、国の神の怒りに致らむことを恐れまつる。

とまをせり。天皇 すめらみことのたまひしく、

よろしくこころより願へる人、稲目宿祢いなめのすくねさづけていやまをろがむることを試みん。

とのたまひき。 

大臣おほまへつきみひざまづき受けまつりて忻悦よろこびき。小墾田をはりたの家に安置きて、ねむころに世に出づるわざを修め、たねと為して向原むかはらの家を浄捨ほどこして寺と為す。

後に国、疫気えやみきて、民、夭残いのちそこなへ るに致りて、久しくありていよいよさはになりて、治療をさむること不能あたはず

物部大連尾輿もののべのおほむらじをこし中臣連鎌子なかとみのむらじかまこともにまをしてまをせらく、

昔日むかしやつこはかりこと不須もちいざれば、斯くの如く病み死ぬることを致しき。今、遠くあらずしてへさば、必ず慶び有るべし。宜しくすみやかに投げちて、ねむころに後のさきはひを求めたまふべし。

とまをせり。天皇すめらみことのたまひしく、

まをししことに依れ。

とのたまひき。

有司つかさすなは仏像ほとけのみかたちを以ちて、難波なにはの堀江に流してぬ。かさねて火を伽藍てらはなちて、焼燼もえつくし更に余り無し。於是ここにあめに風・雲無かりて、ことごと大殿おほとのけり。

是の歳。百済、漢城と平壌とをつ。新羅、に因りて漢城に入りてり。今、新羅の牛頭方こづはう尼彌方にみはう也。〔ところの名、つまひらかにあらず〕。

※口+利(口へんに利)
※水+自(さんずいへんに自)

(九條による読み下し)


【現代語訳】
『日本書紀』巻第十九
◎欽明天皇記

〔欽明天皇十三年〕
(欽明天皇十三年の)冬の十月に百済の国の聖明王せいめいおう(またの名を「聖王」とも言います)は、西部姫氏さいほうきし達率たっそ口+利(口へんに利)嘲斯致契しちけいらを遣わして、釈迦仏の金銅像ー躯、幡蓋はたきぬがさ若干、経論若干を天皇に献じました。

聖明王は使者を通じて天皇に、

「この教えは諸の教えの中で最も優れております。解り難く入り難くて、周公や孔子でさえも理解することができないほどでした」

「この教えは無量無辺の福徳果報を生じ、無上の菩提をなします。それは例えば、物事を思がうままにすることができる宝の珠を手に入れて何でも自分の思い通りにするようなものです」

「この教えは遠く天竺から三韓に至るまで尊崇され、篤く信仰されています」

「ですから百済王の臣明はここに謹んで侍臣の口+利(口へんに利)嘲斯致契しちけいらを遣わして日本に伝え、日本国中に流通させ、仏教は東に伝わるだろうとお釈迦さまが予言された事を、実現しようと思ったのです」

と仏を礼拝するよう伝えました。この日、天皇はこの聖明王からのメッセージを聞かれて歓喜され、使者に、

「私は昔からこれまで、まだこのような素晴らしい教えを聞いたことがありません。けれども、いま私一人でこれを信仰するかどうかは、安易に決定はしないでおきましょう」

とお返事をされました。そして天皇に仕えている群臣ひとりひとりに、

「いまこうして西の国から伝わって来た仏像は容姿端麗で美しく、我が国においては未だかつて見たことがないものです。さて皆さん、これを祀るべきでしょうか、どうでしょうか」

と尋ねられました。このとき蘇我稲目そがのいなめ[08]は、

「西の諸国はみな、この仏教を礼拝しています。我が国(豊秋日本)だけがそれに背くべきでありましょうか」

と天皇に申し上げました。いっぽう物部尾輿もののべのおこし[09]と中臣鎌子なかとみのかまこ(のちの藤原鎌足)は天皇に、

「我がみかどが天下に大王おおきみとしておいでになるのは、ひとえに天地の百八十万やおよろずの神を春夏秋冬にお祀りされ、この国を治められることがその本務でありましょう。いま初めてやってきた蕃神[10](すなわち仏)を拝むとなると、恐らくこの国の八百万の神の怒りを受けることになるでしょう」

と意見を申し上げました。そこで天皇は、

「それでは試しに、百済から伝えられた仏像を蘇我稲目に授けて礼拝させてみましょう」

と言われました。蘇我稲目は天皇の前に跪き、喜んでこれを受けました。

そして稲目は小墾田おはりだ[11]にあった彼の家に、百済から伝来し天皇から授かった仏像を安置し、仏道を修めようとしました。また彼の向原むかはら[12]の家を改築して寺としました。

しかし後に国中に疫病が流行り、若死にする人が多く出てしまいました。その流行り病は長く続いて、治める手立てはありませんでした。

そのとき、物部尾輿と中臣鎌子は一緒に天皇に、

「あのとき、私達の意見が用いられなくて蘇我稲目に仏像を祀らせたりしたから、この流行り病を招いたのだと思います。いま、もとのように仏教は排除して我が国の八百万の神だけを祀るよう、本来の我が国の姿に戻されたなら、きっと良いことがあるでしょう。天皇におかれましては、一刻も早く仏像を投げ捨てて仏教を排除し、後々のこの国の繁栄、民の幸せを願うべきだと思います」

と意見を申し上げました。天皇は、

「なるほど。あなた達(物部尾輿と中臣鎌子)の言うようにしましょう。行動を起こしてください」

と言われました。

すぐさま役人は(蘇我稲目から仏像を奪い)それを難波なにわの堀江[13]に捨て、また稲目が建てた寺には火をつけて余すところなく焼き尽くしました。

すると、天には雲も風もないのに突然、天皇が居られる宮殿に火災が起きてしまったのです。

さてこの年、百済は漢城と平壌とを放棄しました。そこで新羅しらぎ[14]が漢城に入りました。それが現在の新羅の午頭方ごずほう尼弥方にみほうです(この地名については詳細が分かりません[15])。

(九條による現代語訳/意訳)


【註】
[01]538年説は『上宮聖徳法王帝説』および『元興寺縁起』などによる
[02]552年説は『日本書紀』による
[03]国史大系版『日本書紀』(前編)吉川弘文館 1973年
[04]百済(くだら/ひゃくさい)は、古代朝鮮半島南西部にあった国
[05]聖明王(?〜554年頃)は、百済国第26代王。聖王、明王とも。仏教を保護し、百済国における仏教文化を興隆させた
[06]妙法(みょうほう)とは、仏教のこと
[07]流通(るつう)。仏教では「るつう」と読む
[08]蘇我稲目(506年頃〜570年頃)は、蘇我馬子の父。蘇我入鹿の祖父。推古天皇の母である蘇我堅塩媛(そがのきたしひめ)の父
[09]物部尾輿(生没年不明)は、物部守屋(?〜587年頃)の父
[10]当時は仏のことを「蕃神(えみしのかみ)」「客人神(まろうどのかみ)」等と表現していた
[11]小墾田(おはりだ)は、現在の明日香村雷(いかづち)辺り
[12]向原(むかはら)は、現在の明日香村豊浦(とようら)辺り。稲目の向原家(むかはらのいえ)は、現在の向原寺(こうげんじ)=豊浦寺(とゆらでら)であると伝えられている
[13]難波堀江(なにわのほりえ)は、現在の大阪湾だとも、飛鳥地方の雷丘付近にあった大溝だとも言われている
[14]新羅(しらぎ/しんら/しるら)は、古代朝鮮半島東部から南東部にあった国
[15]この部分は『日本書紀』編者による註。『日本書紀』が編纂された段階ですでに新羅の「午頭方(ごずほう)」「尼弥方(みにほう)」は何処なのか分からなくなっていたと思われる


※1999年に行なった市民講座向けの講義ノートから抜粋・編集しました。

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【関連項目】


【これまでの講読】



【おまけ】
※夏休みプレゼント
私が中学生のときに覚えた年代語呂合わせ

◎み仏のパンチパーマを「ご散髪」
→538年 仏教伝来
◎ある日の「午後に」仏が来た!
→552年 仏教伝来
◎聖徳太子は料理が上手、聖徳太子は「コックさん」
→593年 聖徳太子が摂政に
◎「蒸し米」食べて大化の改新
→645年 大化改新(乙巳の変)
◎「なお一番」の大宝律令
→701年 大宝律令成立
◎「何と」立派な平城京
→710年 平城遷都(何と=南都)
◎ウグイス「鳴くよ」平安京
→794年 平安遷都

など。^_^


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