君がした最後を覚えていないからさよならができないままでいる
ハイハイ期の赤ちゃんは、どう見ても赤ちゃん後期というか、小さい小さいねんね期の赤ちゃんとは違う。もはや幼児に近づいた「赤ちゃん先輩」という風格がにじみ出ている。
そんな中、最近、写真フォルダを見返すことに心が苦しくなっていた。
カメラロールにあるのはほとんど娘の写真だ。1日1日の成長が早い赤ちゃん、1瞬1瞬の表情が変わっていく。同じような写真で埋め尽くさているようにみえるが、どれにも思い入れがある。見返しては、懐かしみ、慈しみ、やっぱりかわいいという気持ちが沸き起こり、その時の大変さを思い出す。そして、強く胸の底からギュギュギュと喪失感が突き上げる。
連続した日々の中で刻々と成長していく娘に合わせた生活。今を生きていくことでつい必死になる。しかし、写真を見返すと、今と全然違う娘がいることを突きつけられる。
手足をバタつかせたり、自分の指を不思議そうに見る姿、メリーの動きを一生懸命見つめる眼差し、起きていると思ったらいつのまにかすやすやとまどろみの空間、どこからどうみても小さい小さい赤ちゃん。
会いたくても会えない。もうこの時の娘はいない。あの頃の娘にはもう会えない。
特にそれを実感してショックを受けたのは、あんなに大好きだったバウンサーに乗らなくなったことに気づいた時。バウンサーに乗った時にだけする独特の得意げで興奮した表情。あの表情を最後にしたのは一体いつだったのだろう。動きたくて仕方がない娘は、いつの頃からかバウンサーに乗るとぐずり始めた。確か5ヶ月過ぎたあたりなのか。
同様に6ヶ月半頃、よくグライダーポーズといううつ伏せで手足を伸ばして飛行機のように上下に動かして遊んでいた。いつも動かした後は、満面の笑みで、楽しそうにこちらを見る。あれも今はしなくなった。
つかまり立ちをした、ずりばいをした、ものに手をのばすようになった、次々と新しいことができ、そのことは育児ノートにも記しておく。
でもしなくなったことは、写真を見返した時やふとした日常の瞬間にハタと気づく。気づかなかったことの驚きと、え、じゃああの姿はもう見れないんだ、という寂しさ。じゃあ最後にしたのは一体いつだったのだろう。いつからしなくなったのだろうか。
そして思う。もしかして、今この時もそうなるのだろうか。いつのまにかママママと、くっついてこなくなり、あれ?最近来なくなても平気になったなとハタと気付いて、最後にくっついてきたのいつだっけ?と思うのだろうか。
これが最後って知れたらいいのに。知らなかったから、その時の娘とちゃんとさよならをしていない。何もしていない。
心の奥の方にぽっかり穴が空いたままになってしまうのだ。
君がした最後を覚えていないから、さよならができないままでいる。
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喪の作業はとても大事なことです。心理学用語にもあります。お別れをした後からも時間をかけてゆっくりと喪の作業が進んでいきます。進み方もスピードも人それぞれ。子育ては成長の連続に見えて、喪の作業も沢山しなければならないのでは?と思います。SNSで育児漫画を投稿するのもその1つなのかもしれないと勝手に推論しています。
私は、写真を見たり、こうして日記を書いたり、育児ノートをまとめなおしてるうち、可愛い彼女と過ごせた確かな日々に対して肯定的な意味づけが生まれ、このエッセイを書いた時よりかは切なさより、喜びが増してきました。
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