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【勇敢】”報道”は被害者を生む。私たちも同罪だ。”批判”による”正義の実現”は正義だろうか?:『リチャード・ジュエル』(クリント・イーストウッド)

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報道であれSNSであれ、「他人への批判」が「正義」であるためには、何が必要だろうか?

「誰かを非難すること」があまりにも容易な時代

人間はこれまでも、批判や非難によって個人や組織を傷つけてきた。だから、「人間の性質が変化した」みたいな話ではない。

激変したのは、個人が使えるツールの方だ。私たちは、インターネットやSNSを使うことで、名もなき個人のまま、「誰かを批判・非難する」という強大な力を手に入れてしまった。

誹謗中傷により自殺してしまうという痛ましい事件は度々起こる。なんとも嫌な時代だ。「有名税」などという理由で我慢を強いられてきた有名人も、徐々に法的手段に訴えるようになってきている。良いことだ。

SNSがなかったとしても、学校や家庭、会社などで「言葉の暴力」が行われることはあるし、それについては別途対策を取らなければならない。しかし一方で、SNSがなければ表立って悪口を言うようなことはしない、という人もたくさんいるはずだ。

例えばだが、野球を見ながら「なんでそんな球に手を出すんだよ」とか「今のが打てなくてどうする」みたいなことを言っているオジサンの姿は容易に思い浮かべることができるだろう。今までなら、テレビに向かって、あるいは球場で野次るだけで終わっていた。

しかし今は同じことが、球団や監督、選手のSNSに対して直接行えてしまう。この環境の変化はとても大きいと思う。

「それが出来てしまう環境」さえなければそんなこと絶対にしないのに、「それが出来てしまう環境」があるからやってしまう、という行動は誰にでもあると思う。クレジットカードが無ければ買えないのに、リボ払い出来てしまうから買ってしまう、みたいなことだ。

環境のせいにして諦めてしまおうなんて話ではない。私たちは、「意識して避けようとしなければ、ついうっかり『言葉の暴力』を行使してしまう世界で生きているのだ」と改めて理解しておかなければならない、そうでなければ過ちを犯してしまう、と言いたいのだ。

「公然と誰かを批判すること」に正義はあるのか?

何故SNSの話をしたのか。それは、「現代では、誰もが『メディア』になれる」と改めて認識してもらうためだ。

この映画は、「罪のない個人をメディアが犯人扱いして追い詰めた」という、アメリカで実際に起こった出来事を元にしている。この映画ほどの規模ではないかもしれないが、日本でも、メディアが誤った報道をしてしまったケースは多々あるはずだ。

この映画のモデルとなった出来事は、20年ほど前に起こったものである。日本でも、そして恐らく世界でも、「報道被害」という言葉がまだまともに存在せず、加害者であれ被害者であれ、人権を無視したような報道合戦が繰り広げられていた時代のことだと思う。

時代の移り変わりと共に、メディアでは全体的には以前ほど強引な取材をしなくなったはずだ。ならこの映画のようなことが起こらないかと言えばそんなことはない。むしろ、SNSが大手メディアの代わりとなって「報道被害」を生み出している、と私は思っている。

だからこそ、この映画で示唆されることは、現代を生きる私たちにとっても決して他人事ではない。

さてそもそもの話だが、それが大手メディアであれ個人のSNSであれ、「公然と他人を批判すること」に正義があるとは私にはどうしても思えない。

この話に関係するので、まずは「再発防止」の話をしよう。

私は以前、ある事件記者と話をさせていただいたことがある。その事件記者は、「痛ましい事件を報道する価値はたった1つ、再発防止しかない」と言っていた。

私も同感だ。辛い現実に立ち往生している加害者・被害者、あるいはその家族の中に無遠慮に入っていって、無神経に話を聞き出すことが「正義」であるためには、それが「再発防止」を目的としていなければとても許容はできない。

では、メディアでもSNSでも、「再発防止」を目的としている「他人の批判」は、どの程度あるだろうか? もちろん、「どんな目的で批判しているのか」は、最終的には本人にしか分からない。外野は勝手に推測することしかできないが、私の主観では、「再発防止のために行われている報道」などほとんど存在しない。そういう強い意思を持って活動している人も中にはいるだろうが、大手メディアや有名SNSアカウントになればなるほど、広告やリツイート数などのために「野次馬根性」や「憂さ晴らし」などがメインになってしまうだろう。

恐らく中にはこんな風に主張する人もいるだろう。例えば不倫や薬物の使用の場合、世間が大騒ぎすればするほど、他の人たちが「こんなに批判されるなら自分はやらないでおこう」と感じて抑止力として働くはずだし、それは「再発防止」として機能していると言えるのではないか、と。

しかし私は、そんな主張に納得はできない。あくまでもそれは「結果論」でしかないからだ。「憂さ晴らし」で批判している人の言い訳にしか聞こえない。しかも、殺人や傷害を犯したわけでもないのに過剰に批判されすぎる、とも感じてしまう。仮にそれが社会全体の抑止力として働くのだとしても、そのために個人にのしかかる被害が大きすぎると思うのだ。

また映画の中では、

ジュエルの二の舞はごめんだ。逃げよう

というセリフが出てくる。この状況について詳しく触れはしないが、これは「ジュエルのように酷い報道をされたらたまらないから、正義の実現を諦めよう」という内容のセリフなのだ。このように、報道の仕方によっては、「再発防止」とは真逆の効果しか生まないこともあり得るのである。

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