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【共感】斎藤工主演映画『零落』(浅野いにお原作)が、「創作の評価」を抉る。あと、趣里が良い!

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「創作の絶望」に直面する漫画家の葛藤をリアルに描き出す映画『零落』に滲む「世の中への嫌悪感」に強く共感させられてしまった

実に興味深い物語である。観ながら、様々なことを考えさせられてしまった。

「思考停止しているとしか思えない世の中」で生きざるを得ない「絶望」

映画『零落』の主人公である漫画家・深澤薫は、「売れる」「売れない」について様々な葛藤を抱えている。そして私も書店員時代に、「売れる」「売れない」については散々考えた。

売り手からすれば、それがどんなものであれ、「売れるものは正義」である。売ることで商売が成り立つのだから当然だ。しかし、「売り手」の立場を離れればやはり、「『売れるもの』が『良いもの』なのか?」という問いにぶつかってしまう。もちろん、書店員だった頃はずっと、このような問いを抱え続けていた。

個人的には、「『良い売り手』にはなれなかった」と思っていう。何故なら、「『売れるもの』が『良いもの』だとは思いたくない」と明確に考えていたからだ。というか、世の中のそのような流れにどうにか抗ってやりたいとさえ考えているのである。

映画の冒頭で深澤が、ある謎の少女について過去を回想するようにして語る場面があった。「自分の笑顔が嫌い」「首を締められている時だけが安心できる時間」と口にする、ちょっと変わったその少女は、「流行っているものに一喜一憂する世の中」に対して無性に苛立ちを覚えていたのだという。

「あぁ、分かる」と感じた。私も同じような感覚を、子どもの頃からずっと持っている。私にとって「流行っている」という事実は、「なるべくそれに近づかないでおこう」と感じさせる情報でしかない。また、「ありとあらゆる判断が『流行っているから』に収斂されるような人」にも、どうしても嫌悪感を抱いてしまう。

というのも私には、「流行りを追うこと」は「思考停止」とほぼ同義に感じられてしまうからだ。別に「『流行っているもの』を追うこと」自体に嫌気が差すのではない。「そこには恐らく、本人の思考が一切介在されていないのだろう」と感じられてしまう点にこそ、苛立ちを覚えてるのである。

SNSが登場し、「バズる」という言葉が生まれた。そして、「バズることは正義」みたいな風潮が世の中を支配しすぎているように私には感じられてしまう。「バズり」も私に言わせれば、「思考停止」の集大成でしかない。もちろん、「バズったもの」に罪はないことぐらい理解している。一方で、「『バズり』に群がる人々」はまさに「『思考停止』の集団」と言っていいだろう。私は、そういう世の中が、とても嫌いだ。

繰り返すが、「バズったからダメ」「『バズり』に群がるからダメ」というわけではない。「たまたま知るきっかけが『バズり』だっただけで、その後中身を精査したり来歴を知ったりすることで好きになっていった」みたいなこともあるだろう。あるいは、「バズる前から好きだった」なんてことも当然あるはずだ。だから決して一概には言えないのだが、しかしやはり大雑把に言って、「『バズり』に群がる人々」は「何も考えていない」と考えていいと思う。少なくとも私は、デフォルトではそのように判定するようにしている。

そういう世の中が、私はとても嫌いだ。

誤解されたくないので言葉を足すが、これは決して「他人の『感性』を批判している」みたいな話ではない。そこに「感性」が介在しているのであれば、誰がどんな判断をしようが自由だと当然考えている。そして私が言いたいのは、「そもそもあなたの判断は『感性』によるものですか?」ということなのである。「あなたの『感性』が、それを『好きだ』と訴えかけていますか?」と聞いているのだ。

どんな出会い方をしようが、あなたの「感性」が強烈に反応しているのならそれでいい。しかし私は、「流行ってるから好き」「バズってるからやってみたい」みたいな判断は、「感性」によるものではないと考えている。それは単なる「思考停止」でしかないと判断しているのだ。「みんなと同じことをしたい」「みんなが『良い』と言っているものを好きになりたい」「こんなに流行ってるなら安心だ」みたいな判断はむしろ、「『感性』を殺している」のと同じではないかとさえ思う。

私には、そんな風に「『感性』を殺している」みたいな人が多すぎるように感じられる。そしてだからこそ、そういう世の中に生きることを割と本気で絶望しているのだ。

さて、そんな世の中で「創作」を行うことは、やはり「絶望」と言えるのではないだろうか。

深澤薫は、恐らくかつてはかなり売れっ子の漫画家だったのだと思う。しかし、8年間の連載が終了した直後から始まる映画『零落』においては、「昔ヒット作を出したことがある老害」みたいな扱いになっている。いや、周囲の人間がはっきりそう口にするわけではない。「彼がそのように自覚している」という話だ。

深澤薫も、「売れれば正義」の世の中を明確に嫌悪している。はっきりとそれが伝わるのは、何度電話しても出ない担当編集者の留守電にメッセージを吹き込むシーンだ。「作り手が読み手を馬鹿にするようになったら終わりだ」「作り手が表現の先細りに加担してるんだからもう終わってる」などと、かなり辛辣なことを吹き込んでいるのだ。要するにこれは、「出版社は『売れる』のために『創作の魂』を売り渡してしまっている」みたいな指摘なのだと思う。

難しいのは、「彼自身、かつては大ヒットを飛ばしたことがある」という点だろう。「売れる」ことの威力を十分に知っているし、だからこそ「売れない」ことの無力さも否応なしに理解している。だから、「『売れる』かどうかよりも、『良いもの』を作りたい」という気持ちを常に抱きながら、どうしても「売れるかどうか」みたいな葛藤に囚われてしまってもいるのだ。

それ故に、もう何を描いたらいいのか分からなくなってしまっているのである。

その「共感」は、まったく届いていない

映画の中で特に印象的だったシーンがある。深澤薫が、「君は何も分かっていない」と呟く場面だ。映画のかなり後半のシーンなので、どういう状況で発された言葉なのか、その詳細には触れないでおこうと思う。とにかく私は、この場面で深澤が感じたであろう「絶望」が手に取るように理解できてしまった。

その場面で深澤は、ある「共感」を示される。そしてそれに対して「君は何も分かっていない」と呟くのだ。普通は、「『共感』は『喜ばしい』もの」だと感じるのかもしれない。しかしこの時の彼の「絶望」は、売れっ子作家を担当する漫画編集者である妻から辛辣なことを言われる以上に深いものだったのではないかと思う。

どの程度賛同してもらえるか分からないが、私は昔から、「『共感を示す行為』は、『解像度』が合っていないと逆効果になる」と考えてきた。「解像度」というのは、「レベル感」とか「理解度(理解の深さ)」みたいに捉えてもらえたらいいだろう。例えば、「理解度10のAさん」に対して「理解度2のBさん」が「分かる~」と共感を示す場合、Aさんが「2しか分かってないお前に共感されたくない」と感じるのは、私は当然のことだと考えている。しかし恐らく、このように考えない人の方が世の中には多いはずだ。そして、私にはそれが信じられない。

私は、このようなことを昔から考えていたので、「『共感を示す』のはとても恐ろしい行為だ」とずっと感じてきた。何故なら、「私自身の『解像度』がどの程度であるか、相手に悟られてしまうから」だ。また、その「解像度」に差異がある場合、相手に「何も分かってないじゃん」と受け取られてしまい得ることも、恐ろしいポイントだと言える。

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