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【絶望】安倍首相へのヤジが”排除”された衝撃の事件から、日本の民主主義の危機を考える:映画『ヤジと民主主義 劇場拡大版』

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日本は、政治家にヤジも飛ばせない国なのか?映画『ヤジと民主主義 劇場拡大版』が映し出す、民主主義国家とは思えない「愚かな事件」の全貌

とんでもなく面白く、もの凄く色んなことについて考えさせられた作品だ。本作は、観ようかどうしようか迷っていた映画で、正直観ない可能性もかなりあった。だから本当に観て良かったなと思うし、本作を観るかどうかはともかく、この記事を読むなりすることで、本作で示唆されている「日本のヤバさ」を多くの人に知ってほしいと願っている。

何故なら、本作で描かれていることは最終的に「すべての国民」に関係してくるからだ。

「ヤジ排除裁判」では、日本国民全員に関係する事件が争われた

本作で扱われる出来事は「ヤジ排除裁判」と呼ばれている。私は本作を観るまで、その裁判や対象となった事件のことをまったく知らなかった。札幌市で起こった事件であり、北海道のテレビなどでは大きく取り上げられたようだが、全国的には恐らくあまり大きな話題になっていなかったのではないかと思う。本作を観て、「まさかこんなことが起こっていたとは」と驚かされてしまった。

「ヤジ排除裁判」は、「選挙の応援演説にやってきた安倍首相に街頭でヤジを飛ばした一市民が警察に取り押さえられた」という事件を巡る裁判である。これだけ聞くと、「私には関係の無い話だ」と感じるかもしれないが、まったくそんなことはない。それは、本件の原告となったソーシャルワーカー・大杉雅栄のこんな言葉からも理解できるのではないかと思う。

私にとって、裁判で争うことのメリットってまったくないんです。ただ、私は偶然その場に居合わせて、争う責任があると感じたから、結果として原告になっているだけです。だから、最初から一貫して、私は「公共の利益」を求め続けてきました。

本作を観れば、その通りだと理解できるのではないかと思う。まさにこの裁判は、「公共の利益」を巡る闘いなのである。今も最高裁に上告中で、最終的な判断はまだ出ていないが、その判決の行方には注目したいと思う。本件はとにかく「表現の自由」に関する争いであり、まさに「民主主義の根幹」に直結する問題なのだ。

まあ実際には、このように言われても恐らく、多くの人はちょっと冷ややかな捉え方をするだろうと思う。「分かった分かった、政治の話ね。しかも政権の批判かぁ。いるよね、そういう、権力者に文句言いたいだけの人」みたいに感じる人も多いはずだ。私も割と同じように感じてしまうタイプであり、それもあって基本的には、あまり政治批判に関わりたいとは思えない。

ただ本作に関しては、実際の映像を観たら「そんなこと言っていられない」と感じるのではないかと思う。予告編に少しだけその状況が映っているが、「ただヤジを飛ばしただけの一市民が、大勢の警察官に無理やり拘束される」という映像は本当に、凄まじく衝撃的だった。本編を観れば、より強く衝撃を受けるだろう。マジで「こんなことが民主主義国家で行われていいんだろうか」と思わされたし、多くの人がそう感じたからこそ、札幌を中心に抗議活動が盛り上がったのだと思う。

「私は政治家にヤジを飛ばしたりしないから関係ない」みたいな判断は正しくない。先程も書いた通り、本作で扱われているのは「表現の自由」であり、作中で描かれる「ヤジ排除」が「正しい」と見なされるのであれば、「それがどんな表現であれ、『国が気に食わない』と考えばいくらでも弾圧できる」と解釈するしかなくなると言えるからだ。

これははっきりと”私たち”の問題なのである。この点については明確に理解しておく必要があると言えるだろう。

さて、内容に触れる前に1つだけ注意点を。本作では冒頭で、「肩書は取材当時のもの」と表記されるので、この記事でもそれに倣うことにする。

「ヤジ排除事件」から裁判に至るまでの一連の流れ

それではまず、「ヤジ排除事件」の概要と、それが裁判にまで発展した経緯について書いていこうと思う。

発端となったのは、2019年7月15日に札幌市内で行われた安倍首相による応援演説である。誰でも見られる街頭での演説だということもあり、多くの人が足を止めていた。そしてその中に後に「ヤジ排除裁判」の原告となる、ソーシャルワーカーの大杉雅栄と大学生だった桃井希生もいたのである。

大杉氏は「皆がヤジを飛ばすようなら、自分もそれに乗っかろう」ぐらいの気持ちで会場付近にいたという。彼がイメージしていたのは、2017年に秋葉原で行われた応援演説。ヤジを飛ばす集団に向けて安倍首相が「あんな人たちには負けません」と発言して話題になったが、そのようなヤジの応酬が起こるだろうと予測しつつ演説を待っていたというわけだ。

しかし実際には、反対の声を上げる者は誰もいなかった。大杉氏は当初、「こんなヤジの飛ばない演説なんか見ていても仕方ない」と思い、そのまま帰ろうかとも考えていたそうだ。しかし彼は、「ここで一人声を上げるのも最悪だが、しかし、声を上げずに帰るのはもっと最悪だ」と考え直した。そしてたった一人、演説する安倍首相に向かって「安倍辞めろ!」と大声を張り上げることにしたのである。ちなみに彼は特定の政治団体に所属したことはなく、デモの参加経験もないという。

さて、声を上げた大杉氏は一体どうなったのか。なんと彼は、すぐ近くにいた複数の私服警察官に囲まれ、押され、身体を拘束された挙句、そのまま演説会場から遠ざけられてしまったのである。彼には状況が理解できなかった。当然だろう。「政治家に向かってヤジを飛ばすこと」が、警察官に身体を拘束されるに至るような「違法性」を有しているはずがないからだ。

そこで大杉氏は、自身を取り囲む警察官に「法的根拠」を問い質すことにした。「私は今、何の法律に違反してこのような状況に置かれているのですか?」と。しかし警察官は、その問いにまともには答えない。彼らは、「周りの人に迷惑が掛かるでしょ」「演説をちゃんと聞きたい人が聞けなくなっちゃうから」と漠然とした理由しか口にしないのである。しかしそれでいて、大杉氏を安倍首相の近くに向かわせないように、進路妨害や身体拘束などを続けるのだ。

大杉氏はなおも抵抗した。とにかく何度も「法的強制力はあるんですか?」という類の問いかけをし続けたのだ。しかし警察官からは、「無いからお願いしているんです」と返答が来るばかり。そう、彼らはカメラの前で「法的強制力が無い」ことを認めているのだ。さらに大杉氏が「じゃあ忖度しろってことですか?」と、安倍政権下で頻繁に使われていた「忖度」という言葉を使って質問を続けるのだが、”まさに「暖簾に腕押し」とはこのこと”と言ったやり取りに終始する。結局、そんな不毛な応酬をしている内に、演説が終わってしまった。

演説が終わったので、大杉氏は「もう帰ろう」と考えていたそうだ。しかし警察官から「この後どうするんですか?」と聞かれたことで、「そうか、確か大通りでもまた演説するんだったな」と思い出したのだという。そしてここでく、「次の会場に向かおうとしたらどうなるんだろう?」という考えが浮かんだに違いない。彼は恐らく、「ヤジを飛ばしたい」というよりは、「この付きまとっている警察官たちはどんな動きをするんだろう?」という興味から、次の演説会場に向かうことに決めたのだと思う。

次の演説会場の方向へと向かう大杉氏の後ろを、やはり警察官がぞろぞろとついてくる。そして、再びヤジを飛ばした瞬間に、同じように拘束され、現場から排除されてしまったというわけだ。これが大杉氏のケースである。

一方、当時大学生だった桃井氏は、ヤジを飛ばすことなどまったく考えもしていなかった。恐らく「人が大勢集まっている」ぐらいの感覚でその場に立ち止まっていたのだろう。そのまま大人しく演説を聞いているだけのつもりだったのだが、彼女は、すぐ近くでヤジを上げた男性が誰かに拘束されている様子を目撃してしまう。もちろん拘束されたのは大杉氏である。彼女はその時点ではまだ、大杉氏を拘束したのが警察だとは思っていなかった。恐らく、自民党の関係者ぐらいに考えていたのだろう。そして、「ヤジも飛ばせない世の中なんておかしい」と感じ、彼女もまた一人で声を張り上げる決断をし、「増税反対」と口にしたのである。

するとやはり、彼女も近くにいた私服警察官に拘束されてしまう。大杉氏と同様、彼女も法的根拠等を問いただすのだが、とにかくまったく話が通じない。こうして桃井氏もまた、「違法行為をしているはずのない自分が、警察に囲まれ威圧されている」という状況に驚愕させられることになったのだ。

さらに桃井氏の場合、演説が終わった後も女性警察官2人に腕を掴まれたまま歩かなければならなかった。距離にして2km、実に1時間近くもその状態が続いたことになる。女性警察官は、「あなたとウィンウィンの関係になりたいだけ」「ジュースでも買ってあげようか」などと状況にそぐわないことばかり口にする一方で、「何故桃井氏を拘束しているのか」については一切説明しようとしない。「こんな扱いが警察の振る舞いとして許されるのか」と、彼女は怒りに震えていた。

このような経緯から大杉氏と桃井氏は、北海道警察を相手取り「ヤジ排除」を不服とした刑事裁判を起こすことに決める。しかし両者とも、刑事裁判は「不起訴処分」という判断になった。その後、舞台を民事裁判に移し、国を相手取った国家賠償請求訴訟という形で、現在も裁判が進行中である。

大雑把ではあるが、これが本作で扱われる「ヤジ排除裁判」の概要だ。

北海道警察による「ヤジ排除」は、「衆人環視の中で行われた」という点が特に異常である

さて、この「ヤジ排除事件」の最も大きな特徴は、その様子が複数のカメラに記録されていたという点にあるだろう。大杉氏の場合は一緒にいた友人が、そして桃井氏は自らその時の状況を撮影していた。もちろんそれらは、映画の中で使われている。当たり前だが、隠し撮りをしているわけでも何でもないので、警察官は「自身が撮影されている」ことをちゃんと理解した上で行動していたというわけだ。

しかもそれだけではない。安倍首相による応援演説なのだから当然、会場付近にはマスコミのカメラも多数存在していたのだ。にも拘らず、警察官は一切の躊躇を見せることなく、ヤジを飛ばした者をすぐさま拘束し排除したのである。私は、この点が何よりも凄まじいと感じさせられた。このようなことが民主主義国家で起こっているのだから驚きだ。

彼らの弁護を担当した弁護士は、「もし映像が無かったら裁判を勧めなかった」と素直に語っていた。「ヤジ排除事件で裁判を起こす」というのは当然、「警察に一定の抑止力を与える」ことが一番の目的だと言える。しかし、もしも負けてしまえば、抑止力どころか、「このような行為は問題ない」とお墨付きを与えるような状況にもなりかねないのだ。敗訴よるデメリットがとても大きな裁判なのである。そして弁護士は、「実際の様子を撮影した映像が無ければ勝てる可能性は低い」と考えていたというわけだ。

だとすると、まさに「スマホの普及によって可視化されるようになった問題」の1つという見方も出来るのではないかと思う。

これ以降は、ブログ「ルシルナ」でご覧いただけます

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