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【誠実】戸田真琴は「言葉の人」だ。コンプレックスだらけの人生を「思考」と「行動」で突き進んだ記録:『人を心から愛したことがないのだと気づいてしまっても』

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AV女優・戸田真琴は、徹底的に「言葉」の力を信じる人だ。エッセイ中に溢れる「誰かを支えたい」という強い想い

戸田真琴のことは、AV女優としてではなくエッセイストとして知ったのですが、デビュー作『あなたの孤独は美しい』には本当に驚かされました。「言葉の人」にしか興味が持てない私の琴線にメチャクチャ触れるぐらいの、弩級の「言葉の人」だったからです。詳しくは『あなたの孤独は美しい』の記事を読んで下さい。

『あなたの孤独は美しい』は、理性的で理屈っぽいエッセイだと感じましたが、本作『人を心から愛したことがないのだと気づいてしまっても』は、前作と比べれば感性的な書き方が強い作品だと思いました。とにかく彼女は、「自分の言葉で誰かが救われるなら、それほど素晴らしいことはない」ぐらいに思っているはずです。そして前作以上に、その想いが強く打ち出されている作品だと感じられました。

とにかく、「どうせAV女優だろ」みたいな先入観は持たずに是非読んでみてほしい作品です。特に、「世の中の当たり前に馴染めない系の人」には、彼女の言葉や想いは強く刺さるのではないかと思います。

戸田真琴は、どれだけ「言葉」を信頼しているのか?

私も日々、こうやって文章を書いているのですが、その理由に繋がるようなことを戸田真琴が書いていました。

周りがこう言っているから自分もそうしよう、と多数派の示す流れに乗ってしまえるのならば、生きるということはもう少し楽だったのかもしれない。もちろん、マジョリティにはマジョリティとしての苦労もあると思うけれど、感覚を麻痺させてしまうことさえできれば、孤独感は忘れることができる。

そう、彼女はとにかく「マジョリティとして生きられない人」なのです。私も同じで、だからこそ文章を書いているのだと自分では思っています。彼女が「感覚を麻痺させてしまうことさえできれば」と書いているように、私ももしマジョリティ側にいられたら、正直、物事をあまり深く考えなくても生きていけたでしょう。周りが言っていることをなんとなく「正しい」と信じることができて、みんなが進む方向に違和感を覚えずに並走できるのであれば、文章なんか書いていなかったかもしれません。

私は、自分が「マジョリティ」の中に上手く混じれないことを理解した上で、どうしてそうはなれないのかを自分の中で確かめるみたいな気持ちでずっと文章を書いているような気がします。それこそが、私の中から消えずにずっと残り続けている「文章を書く動機」のはずです。

たぶんそれは、戸田真琴のこんな感覚と通じるものがあるのだろうと思っています。

自分を出していくうちに、エッセイや文章の仕事が増えていった。でも「文章を書くのが好き」とはっきり言うには戸惑いがある。文章を書くことは、自分のなかの替えの利かない瞬間を残しておくためのただの手段に過ぎないのであって、それそのものが目的ではない。

私にとっても、「文章を書くこと」はあくまでも「手段」でしかなく、決して「目的」ではありません。もしも、「ヘルメットのように被ってスイッチを押せば、その時の自分の思考をそのまま保存できる機械」が存在したら、文章を書いたりはしていない可能性もあります。「文章を書くこと」以外に思考や感覚を残しておける手段が存在するなら、別にそれでもいいからです。ただ今のところその手段はほぼ「文章を書くこと」ぐらいしかありません。だから文章を書き続けているというわけです。

そしてそんな風に文章を書き続けてきたからこそ、戸田真琴は「言葉」が持つ力のことも十分理解しているというわけです。

言葉は、放たれたらもう言葉でしかない。
言葉は言葉そのもので、それ自体が持っている意味、それ自体が伝えたかったことだけでちゃんと伝わるべきだと私は思う。

このような感覚を持つ人は、とても信頼出来ます。人前に出るような有名人の場合、どうしても「有名人としての自身の存在感・影響力」を加味した上で「言葉の力」を捉えている印象が強いです。もちろん、そういう捉え方が大事になる状況もあるでしょう。しかし戸田真琴はそうではなく、「言葉は、言葉単体として正しく届くべきだ」と考えているわけです。

そしてだからこそ彼女は、逆説的に「言葉の力を重視しすぎないこと」が大事だと考えています。

私たちは、人に伝える・共有するというプロセスを重んじるあまり、「ただ感じる」ということの大切さを忘れてしまう。本当は、映画との出会いはいつもあなたと映画のふたりぼっちであるべきで、その中では、あなたが感じたことを言語化することができるかどうかなんて、たいして問題ではない。

先程触れた通り、「文章を書くこと」はあくまでも「手段」です。例えば「映画を観ること」であれば、最も重要なのは「感じること」であり「文章を書くこと」ではありません。このような理解こそが大事なのだと、彼女は正しく捉えているのです。

そして、それぐらい解像度高く「言葉」というものを捉えている戸田真琴だからこそ、彼女が紡ぐ「言葉」は届くべき人のところに適切に届くのだと思います。

悲しみの中で書かれた言葉が、誰かの悲しみに触れる時、私の悲しみは、この世にあってよかったものだったんだと、そう思うことができた。

誰かひとりでも、同じ苦しみを背負っているけれど言語化できないせいで逃げ出すことができない状況にある人に、あなただけじゃないということ、そして逃げ出しても構わないのだと言うことをわかってもらえたらそれでよかった。

このような彼女の感覚について、さらにもう少し深掘りしていきたいと思います。

「誰かの人生を支えるために言葉を紡ぎ続ける」という彼女の決意

本書には、引用したいと感じる文章がたくさんあるのですが、中でも一番印象的だったのが次の文章です。

世界で一番寂しい人は誰だろう、といつも探している。私は、まだ見ぬその人の味方をするために生まれてきた。なぜかずっと自分はそうするべきなのだと、わかっている。

どうして印象的だったのかというと、私の中にも近い感覚があるからです。

彼女は「孤独であることに困ってもいない」と書いているのですが、この感覚もかなり共感できました。私も「孤独感」を抱くことはあるのですが、もうかなり長い付き合いなので、「ほとんど解決不能だから考えても仕方ない」という結論に行き着いています。だから、自分の「孤独」についてあれこれ悩むことはあまりなくなりました。

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