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【幸福】「死の克服」は「生の充実」となり得るか?映画『HUMAN LOST 人間失格』が描く超管理社会

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「死を克服した超管理社会」で人類は幸福になれるのか? 映画『HUMAN LOST 人間失格』が描く「未来の可能性」

映画の冒頭で、「原案『人間失格』」と表示される。しかし、このSF的な作品のどこに、太宰治の『人間失格』が組み込まれているのか、私には分からなかった。人物名とキャラクターの設定を拝借した、ぐらいの話なのではないかと思う。それで「原案」と言っているとしたら、ある意味で度胸のある作品だと感じる。

映画を観て感じたことは、「アニメは哲学を語る器として最適」ということだ。映画『虐殺器官』でも同じようなことを感じたが、難解な話をしていても、「それを理解したい」という気持ちにさせる力があるように思う。そもそも「SF」という器が「哲学」を語るのに適しているのだと思うが、さらにそれが「アニメ」になることで、余計に受け入れやすくなる。『HUMAN LOST 人間失格』も、「死の克服」や「超管理社会」など、日常的ではあるがなかなか深くは考えないテーマについて描き出す作品だ。こういうアニメ作品を通じて、「普段なかなかしない思考」に触れることが、人生をより豊かにするはずだとも考えている。

テクノロジーの進化によって、それまで不可能だった「管理」が可能になった

私はさほど歴史に詳しくないのであまり自信はないが、様々な時代、様々な地域で、「国王などのトップが平民から搾取することで人々を管理する」という国家運営がなされてきたはずだ。もちろん、現代でも独裁国家と呼ばれる国はある。つまり、重い税負担を課したり、思想や集会を制限したりすることで人々から「自由」や「権利」を奪い、トップに君臨する者が好きなように振る舞えるような仕組みを、人類は永きに渡って行ってきたというわけだ。

そういう手法が連綿と続いてきたのは、「人々wp管理する手法がそれしかなかった」からだろう。抑圧し続けることによってしか人民を平伏させられなかったというわけだ。もちろん、性格が超サディスティックな「暴君」もたくさんいただろうが、管理するための手段が他にあれば暴力的な手段など取らなかったという者もきっといると思う。

しかし、科学やテクノロジーの進化によって、人類は新たな「管理手法」を手にすることとなった。

例えばグーグル。私たちは日々様々な検索を行うが、その検索キーワードを元に関心の度合いが判断され、それを元に表示する最適な広告が決まるのみならず、表示される検索結果も最適化されている。この辺りのことに詳しい知識を持っているわけではないが、恐らく、同じキーワードで検索しても、検索する人が異なれば、検索結果もまた違ってくるはずだ。このようなことは既に、技術的には容易に行えるようになっているはずで、グーグルに限らず、様々なSNSやウェブサービスが同じような仕組みを採用しているのだろうと思う。

そしてこのような技術は、ある種の「分断」を生みもする。あまり深く考えなければ、私達は皆「他の人も、自分と大体同じような情報に触れているはずだ」という発想になると思う。しかし実際には、一人ひとり見ている情報はまったく異なる。コロナワクチンに反対する人には「コロナワクチンは危険だ」という情報ばかりが集まり、推しのアイドルがいる人にはその推しの情報ばかりが集まることになるのだ。

このような、「『皆が同じような情報を見ている』という幻想を共有する中で、一人ひとり触れている情報が異なる状態」には、「フィルターバブル」という名前が付けられている。自分を取り囲むような「バブル(泡)」が存在しており、実はその外側に出ることは出来ない(フィルターされている)のだが、本人はその「バブル」の存在を認識できず、他者と分断されていることに気づかない、という意味だ。

「フィルターバブル」はあくまで結果であり、グーグルなどのウェブサービス提供者がその状態を積極的に作り出そうとしているわけではないだろう。ここで重要なのは、「私たちはもはや、多少の不利益があってもこれらのサービスを使わざるを得ない」という点にある。まさにそれは「管理」と言っていいはずだ。これこそ人類が手に入れた新たな「管理手法」である。

「フィルターバブル」という状態に気づいているかどうかともかく、様々なウェブサービスを使う中で、「これを使うことが、自分にとって果たして本当にプラスと言えるだろうか?」と疑問に感じてしまうこともあるだろう。「映え」を意識した写真ばかり投稿して疲れる、ゲームは好きだが人間関係が面倒くさいなどなど、「生きていくのに必要だが、それがもたらすマイナスも見過ごせない」みたいな感覚になることも多いのではないかと思う。しかしそうだとしても、「使わない」という選択をすることはなかなか難しい。

一方私たちは、ウェブサービスを使うことで「幸福」や「自由」を得た気になれる。確かにそれは間違っているわけではない。仲間を見つけたり、めんどくさい作業を時短したりすることで、生活はより良くなるだろう。しかし結局のところそれらは、「そのウェブサービスの存在を前提にした『幸福』や『自由』」でしかない。ウェブサービスの提供者が想定しない、あるいは提供したくない「幸福」「自由」は存在し得ないのだし、あるいは様々な理由からそのウェブサービス自体が無くなってしまう可能性もある。

こう考えると、権力者をどれだけ遠ざけることができたとしても、私たちの「幸福」「自由」は巨大企業に握られてしまっていると言えるだろう。

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