見出し画像

【排除】「分かり合えない相手」だけが「間違い」か?想像力の欠如が生む「無理解」と「対立」:『ミセス・ノイズィ』

完全版はこちらからご覧いただけます


強すぎる「共感」と、失われる「想像力」

「予想外」と言ってしまうのも申し訳ありませんが、この映画、なんとなく想像していたよりもずっと面白く、深く考えさせられる作品でした。

「布団叩きが騒音だ」と訴えられた女性(結構前の出来事ですが、当時はテレビで大きく取り上げられました)がモデルになっており、現実とは全然違うハチャメチャな展開を見せつつも、「物事を表層的に捉えることの怖さ」も感じさせる作品です。エンタメ作品としても社会派作品としても良くできていると感じました。

「想像力」を失いたくない

私はいつも、「想像力を無くしたら人間としてお終いだよなぁ」と思って生きています。誰とも関わらずに孤独に生きていくのならともかく、社会の中で他人と関わって生きていくことを選ぶならば、他人への想像力だけは捨ててはいけないよなぁ、と。

だから可能な限り、「相手には相手の理屈が必ずあるのだ」と考えるようにしています。

もちろんこれは、かなり難しいことだと日々実感しています。自分の理屈に照らし合わせて「どう考えてもおかしいよなぁ」と思うことに遭遇すると、やはり「なんだコイツ」と感じてしまうし、あまりに考え方が違う人の場合、「何かあるんだとしても、相手の事情が想像できない」という状態に陥ってしまうのです。

また、「目の前にいる人と、どこで価値観が衝突するか」は、自分が「当たり前だ」と感じていることを話すまで表面化しないことも多いと思います。

例えば、「結婚したら自分の両親と同居するのが当然」と考えている男性がいるとして、その人にとってはその考えがあまりにも当たり前であるが故に、女性がプロポーズを受け入れた後で揉めるかもしれません。

「その人が、何を『当たり前』と感じているか」というのは、「差異が浮き彫りになる状況」が現れない限り気づかないことが多く、だからこそその違和感は常に唐突に現れることになります。「そんな価値観の人だとは思わなかった」という反応になってしまうということです。

私が期せずして良かったと感じるのは、本を読んだり映画を観たりしていたことです。別にそういう意識があったわけではありませんが、結果として「世の中には多種多様な価値観が存在する」と認識することができました。その効用に気づいてからは、意識的に、「今の自分の価値観とは合わないかもしれないもの」にも手を伸ばすようにしています。「想像力」を失わないようにするためです。

「共感」が強すぎる世界

さて話は変わりますが、今の時代は「共感」の価値がとても強いと感じます。というか、「共感の価値が強い」という意識さえ持っている人は少ないかもしれません。というのも、「自分が心地よいと感じる情報」だけを選び取れる時代だからです。

好きなことをツイートする人をフォローする、好みの写真をアップする人をフォローする、自分が知りたい情報を登録してフィルタリングする……などなど、「欲しい情報」だけを手に入れることが出来ます。現代人の多くは、「自分の周りに好ましい情報しかない」という世界を生きているのではないでしょうか。

そして私は、そのことをとても怖いと感じます。何故ならそれは、「想像力」を遠ざける行為に感じられるからです。

「共感」そのものは何も悪くありません。ただ、「共感」が強くなることで、「共感できないもの」がどんどんと排除されてしまうことが怖いと思います。

恐ろしいのは、「排除している」という意識さえ持てないことです。「この情報には共感できないから排除する」と意識的にやっているならまだしも、今の時代は、関心の持たれない情報はただ届かないだけなので、「共感できないもの」を「排除している」という感覚がが持てません。

「排除している」という感覚がなければ、「自分は正しく情報を集めている」と思い込んでしまうでしょう。「私は別に情報を排除してない。だから、自分のところには色んな情報が届いているはず」と無意識の内に感じてしまうということです。実際には、かなり偏った情報にしか接していないのに、世の中の情報に一通り触れているような気分になれる、というのが今の時代と言えるでしょう。

そしてだからこそ、「炎上」が起こるのだと私は思っています。

今の時代、私を含めた世の中のほとんどの人は、かなり偏った価値観・情報にしか触れていません。しかし一方で、「自分は情報を排除していないから、様々な情報が届いているはずだし、それを日々目にしている自分は、公正な判断ができる」と本人は考えているでしょう。だからこそ、「偏った価値観・情報を基に、相手を批判する」という行為が生まれることになると私は考えています。

これはまさに、「想像力の欠如」と言っていいでしょう。

「共感」は、これからもますますその強さを増していくだろうと思います。そして、社会がそうなればなるほど、「想像力」は失われていくでしょう。

今までは「世代間ギャップ」と呼ばれていたような価値観のズレが、今は同世代間でも顕著に見られるようになっていると思います。価値観が多様になることそのものは望ましいと思っていますが、それぞれの価値観が離れ小島のように点在しているだけでお互いの理解や交流が無いのであれば、せっかくの多様性も意味がないでしょう。そして私たちは、まっしぐらにそういう社会へ突き進んでいると感じています。

「間違っている」という言葉の難しさ

この映画では、状況をかなり極端に描き出すことによって対立や差異を浮き彫りにし、分かりやすい物語に仕上げています。しかしだからと言って、分かりやすすぎるわけでもありません。

映画の中である人物がこんなことを言います。

これ以降は、ブログ「ルシルナ」でご覧いただけます

ここから先は

2,526字

¥ 100

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?