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【生きる】志尊淳・有村架純が聞き手の映画『人と仕事』から考える「生き延びるために必要なもの」の違い

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志尊淳・有村架純が、コロナ禍で炙り出された「『生きる糧』の違い」と「分断の現実」を直視する

映画『人と仕事』の予告編を観た時、「どうして志尊淳と有村架純の2人が選ばれたのだろう」と感じました。ドキュメンタリー映画の聞き手としてはなかなか唐突なセレクトで、不自然に感じたからです。

映画を観てその疑問は氷解しました。

元々この2人を主演にした『保育士T』という映画の撮影が予定されていたのですが、コロナ禍ということで撮影中止が決定してしまいます。そしてプロデューサーから、結果的に空き時間となってしまったこの期間を使ってドキュメンタリー映画を撮らないかと打診があったというわけです。

そんなわけで、志尊淳・有村架純が聞き手となって、コロナ禍で苦境にあえぐ様々な人を映し出す、なかなか異色のドキュメンタリー映画が完成することになりました。

「生き延びるために必要なもの」は人によって違う

コロナ禍で改めて強く意識させられたことがあります。それが、「生き延びるために必要なもの」は人によって全然違うということです。そしてその感覚が、映画『人と仕事』によって再び強く実感させられました。

私自身は、非常に運が良かったことに、コロナ禍によるダメージはほぼ無かったと言っていいでしょう。コロナとは関係ない理由で何度か職を転々としたものの無職の期間はなく、給料は同年代と比較したら平均以下だと思いますが、別に生活できる程度にはあります。結婚していないので家庭や子育てでの苦労が増すこともなく、介護しなければならない状況でもありません。

元々インドアの人間なので、「外に出られないこと」を苦痛に感じたりしませんし、「映画館で映画を観る」という趣味も、最初の緊急事態宣言中を除けばほぼ制約されませんでした。食べることに興味がなく、ほぼ自炊で生活していることもあり、飲食店が空いていない状況にも特に支障を感じたことはありません。自粛期間中に一番嫌だなと感ったのは、「仲の良い人と飲みに行けない」ということぐらいでした。

そもそも私は、平時でも「生き延びること」に難しさを感じてしまう人間なので、パンデミックによってその難しさが増さなかったことは奇跡的だと感じています。本当にありがたいことです。

ただ、私のこの奇跡は、「私にとっての『生き延びるために必要なもの』が、コロナ禍で制約されなかった」というだけの話にすぎません。「生き延びるために必要なもの」が制約された人たちは、本当に大変な思いをしているだろうと思います。

ましてその「生き延びるために必要なもの」が、「世間的に受け入れられないもの」でもあるとしたらなおさらでしょう。

テレビの報道番組などでよく目にしたのが、「緊急事態宣言中に深夜まで路上飲みをしている若者たち」の姿です。「自粛が求められている最中、『路上』という公共の場で他人の迷惑を顧みずに飲み騒いでいるなんてけしからん」というような捉え方で若者を映し出す光景をよく目にしました。

ただ、「路上飲みをすること」が彼らにとって「生き延びるために必要なもの」という可能性だってあるはずです。

家に帰れば親から虐待を受けるのかもしれません。その日まではずっと家にいて頑張ってきたけれど、どうしても耐えきれず久しぶりに羽目を外してしまったのかもしれません。直接顔を見て話さないと打ち明けられないような悩みがあったのかもしれません。

もしそうだとするなら、お酒を飲んで騒ぐことはともかく、路上ででたむろすることは「生き延びるために必要なもの」と考えていいのではないでしょうか。

もちろん、「自分さえ良ければ良い」という他人の迷惑を顧みない考えで飲み騒いでいる人もいるはずです。しかし、全員が全員そうだと考えるのも早計でしょう。そういう想像力を失ってはいけないと、改めて実感させられました。

「メディアが分断を生んでいる」と手塚マキが語る

映画『人と仕事』では、コロナ禍においてもリモートワークが不可能な仕事を取り上げています。保育園や介護施設などがパッと思い浮かぶでしょう。その1つとして、映画ではホストなど夜の仕事も扱われています。そして映画全体において、新宿・歌舞伎町でホストクラブなどを経営し、様々な形で表に出る機会が多い手塚マキの言葉が私には印象的に感じられました。ちなみにですが彼は、Chim↑Pomというアート集団の一員であるエリイの夫としても知られています。

コロナ禍では、ホストクラブなどが「クラスターの温床」として槍玉に挙げられることが多くありました。しかし手塚マキによれば、それは一面的な見方に過ぎません。彼は、「ペストの時にも売春宿が悪者にされた」と、過去の歴史を振り返ります。そしてその上で、

「夜の街の問題」と言われるものは結局、「社会構造の問題」なのだ

と指摘するのです。

しかし「社会構造の問題」という捉え方をせず、「ホストクラブが悪い」みたいな一方的な視点でメディアが報じることがあります。そしてそれをホストクラブで働く若者たちが目にして、「開き直り」のような感覚になってしまうと言っていました。「どうせ自分たちは日陰者だから、何をしたって別にいい」という感情が芽生えるのだそうです。そしてそのことが、結果として「ホストクラブが悪い」という見方を補強してしまうことになります。

つまり、「『メディアの報じ方』が悪循環を生んでいる」というわけです。

手塚マキは、「確かにホストクラブには『日陰者』と呼びたくなるような奴が集まっているが、それは、『ホストクラブにしか居場所がなかった』という事実の裏返しでもある」とも言っています。これはお客さんにしても同じで、「ホストクラブでお金を使うことでどうにか生き延びている人」もいるわけです。

彼は、コロナ禍で注目を集めた、星野源の『うちで踊ろう』という曲にも言及していました。別にあの盛り上がりに水を差したいなんて話ではありません。ただ、「『星野源の歌を歌って静かにステイホームできる人』なんて、世の中にほとんどいないんじゃないか」と言っていました。「『家が好きだ』なんて言える人も少数なんじゃないかのか」とも。確かにそうだろうと思います。

手塚マキのこのような言葉は、「生き延びるために必要なもの」が人によってまったく異なることを示していると言えるでしょう。

もちろん、コロナ禍であるかどうかに関係なく、何らかの「依存状態」に陥ってしまっているなら、それは改善すべきだと思います。それがどれだけ「生き延びるために必要なもの」だとしても、お酒・パチンコ・ギャンブル・占いなど、何かに「依存」している状態は良くありません。しかしそうでないのなら、社会一般の感覚と合わないとしても、自分にとって「生き延びるために必要なもの」を最優先するという選択は許容されるべきだと感じます。

これ以降は、ブログ「ルシルナ」でご覧いただけます

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