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天才・アインシュタインの生涯・功績をベースに、簡単過ぎない面白科学雑学を分かりやすく書いた本相対性理論も宇宙論も量子論も

割引あり

はじめに

本書『天才・アインシュタインの生涯・功績をベースに、簡単過ぎない面白科学雑学を分かりやすく書いた本:相対性理論も宇宙論も量子論も』を選んでいただき、ありがとうございます。楽しんでいただければ幸いです。まずは、本書のコンセプトや構成について説明しておきたいと思います。

本書は、「科学や科学者について、決して難しすぎず、易しすぎもしない面白雑学をお届けする」というコンセプトで書きました。私は科学や数学が好きで、よくそういう類の本を読むのですが、そのような「理系本」は概ね、大きく2つに分けられると思っています。「簡単すぎる雑学本」か「ちょっと難しい玄人向けの本」の2つです。もちろん、「ある程度以上の難易度を保ったまま、分かりやすく書かれた本」もありますが、そのような良書は決して多くはありません。

そこで私は、これまでに読んできた様々な本の記述を総ざらいして、「『簡単すぎる雑学』ではない、『科学にさほど詳しくない人でも面白く読めるだろう内容』を、できる限り分かりやすく伝える本」を作ろうと考えました。そして、その際に主軸に据えたのが「アインシュタイン」です。

アインシュタインという科学者の名前は、科学に興味があるかどうかに関係なく、誰もが耳にしたことがあるでしょうし、馴染みやすい存在だと思います。またアインシュタインほど、現代科学のありとあらゆる分野に名前が出てくる科学者も珍しいのです。そこで本書では、「アインシュタインにまつわる様々なエピソードを中心にして、現代科学に関する面白い知識やエピソードをできる限り盛り込む」ことを目指しました。

そのようなスタンスの作品なので、科学的な知識についてはさほど深入りしていません。詳しく記述しているのは、「特殊相対性理論」と「一般相対性理論」ぐらいです。それ以外の、一般的な「理系本」には間違いなく書かれているだろう科学的知見については、ざっくり触れるに留めました。「本書を入り口に、科学の様々な知見に関心を持ってもらうこと」を目指しているので、さらに詳しい説明については、何か別の本を読んで下さい(ちなみに、外国人著者の「理系本」を選ぶ際は、訳者が「青木薫」のものを選ぶことをオススメします)。そういう意味では「不十分な作品」かもしれませんが、逆に、「本書を読めば、現代科学に通ずる面白い話は大体網羅できる」とも言えるでしょう。「『理系本』を読む前に読む本」と言ってもいいかもしれません。

全体は12の章に分かれています。本書は「完全版」ということもあり、頭から順番に読んでもらう想定で構成していますが、気になる章から読んでもらってもさほど支障はないでしょう。ざっくりと、各章の内容について説明しておきます。

1.<天才が人間でノーベル賞 編>
 :アインシュタインの人間的エピソードの数々と、ノーベル賞受賞に関する様々な話
2.<2つの相対性理論、解説するよ 編>
 :「特殊相対性理論」と「一般相対性理論」を分かり易く説明しました
3.<ぶっ飛び天才揃い踏み 編>
 :相対性理論に関係する、ガリレオ・ニュートンなど様々な天才のエピソード
4.<一夜の大バズリと激アツ復活劇 編>
 :アインシュタインが世界的有名人となった契機と、あまりに有名な「最大の失敗」
5.<クソ夫ゲロヤバ伝説と奇跡の年と原爆と 編>
 :夫としても人間としてもサイテーなエピソードと、「奇跡の年」「原爆」の話
6.<天才の超絶ダメダメ期 編>
 :世に知られる以前、学生時代・役人時代の様々な興味深いエピソード
7.<ヤバ量子論で天才2人がイカれ神バトル 編>
 :ぶっ飛んだ主張をする「量子論」の解説と、アインシュタインによる猛反対
8.<負け天才と哀れ猫、SF的多世界 編>
 :死後明らかとなった「アインシュタインの敗北」と、あまりに有名なあの猫の話
9.<ブラックホールってマジなんなん? 編>
 :アインシュタインが反対したブラックホールはどう受け入れられていったのか?
10.<嫌われビッグバンとヤバすぎ人間原理 編>
 :批判されまくった「ビッグバン理論」と、科学の主張とは思えない「人間原理」
11.<ビッグバン物語、もはや映画やん 編>
 :ビッグバン理論の正しさが認められるまでのドラマティックすぎる物語
12.<全部ボロカスに批判されるやん 編>
 :現在は常識の「光量子」「力の統一」は、提唱当初は批判されまくりでした

また本書では、すべての要素を、最初から最後までひと繋がりになるように配置しました。その構成にも注目していただけたらと思います。

ちなみに私は、慶應義塾大学の理工学部に通っていましたが、あーだこーだあって2年で退学しました。つまり、研究者や大学教授といった権威ある肩書きを持っているわけではない、「単に『理系本』を読むのが好きな人」でしかありません。

恐らく、「正確な知識」を持っている人からすれば、私の記述・説明は「正しくない」と感じられる部分もあるでしょう。確かに、私の理解不足によって不十分な説明になってしまっている部分もあるとは思いますが、私としては「『正確に伝えること』よりも『なんとなく面白さが伝わること』を優先する」というスタンスで記述することを心がけたつもりです。批判は真摯に受け止めますし、明らかな誤りがあれば訂正させていただきます。ただ、先のようなスタンスであることも理解していただければ幸いです。

アインシュタインという科学者がどれほど激動の人生を歩んできたのか。そしてそんなアインシュタインがどれほど多くのことに挑戦し、どれだけ批判され、どのようにして死後も影響を及ぼし続けてきたのか。人生のどこを切り取っても「凄まじい」としか言いようがない人物の生涯とともに、現代科学の魅力を感じていただければ幸いです。

天才が人間でノーベル賞

贈り物を”購入”させられ、警官を呼ばれた天才

まずは、こんな奇妙な話から始めましょう。ベルリン市から誕生日プレゼントとして贈られるはずだった家と土地を、アインシュタインが自分のお金で買わなければならなくなってしまったというおかしな顛末です。

アインシュタインは1913年以来ベルリン市に住んでおり、そのお陰でこの街が外国人から注目を集めるようになりました。その功績を称える意味もあり、ベルリン市当局は、ある小別荘を贈ることに決めます。しかし奇妙なことに、その別荘には既に住んでいる人がいて、しかもなんと住む権利を与えたのは当のベルリン市当局だというのです。市はそのことを忘れてしまっていたのでした。というわけで当然、その少別荘をプレゼントする案はボツです。

その小別荘は美しい庭園に面していたので、次善の案として市は、その庭園内の土地をプレゼントしようと考えます(家は自分で建てて下さい、というわけです)。しかしなんと、これも不可能だと判明しました。美しい自然の景観を楽しむ邪魔にならないようにと、「誰も庭園内に建物を建ててはならない」という保証をその小別荘の住人があらかじめ得ていたからです。

困った市は、あれこれ考えた挙句、近くにある別の土地をプレゼントすることに決めます。しかしそこは、当初贈られる予定だった土地と比べて大分見劣りするような場所でした。さらに、結局その土地も、ベルリン市で取得できるものではないと後に判明したのです。さて、どうしたらいいでしょうか。

市としては、「アインシュタインに贈り物をする」と打ち出してしまっているわけで、どうにか対応しなければなりません。そこでアインシュタイン夫妻に、「お好きな土地を指定してください。我々がその土地を買いますので」と提案することにしました。それを受けて夫妻は、カプートという村にある美しい土地を希望したのですが、その頃ベルリン市の議会ではなんと、「そもそもアインシュタインに贈り物なんかする必要があるのか?」という動議が出ていたのです。市の対応はあまりにお粗末すぎますよね。

そんな展開にアインシュタインもさすがにイライラし、結局、「私の生命を、貴方がたのやりかたに合わせて行くにはあまりに短かすぎるのを感じます」(※1)という皮肉交じりの手紙を送り、辞退してしまうのです。そんなこんなで、アインシュタイン夫妻は結局、カプートの土地を自ら買い、そこに自ら家を建てざるを得なくなってしまったのでした。このせいで当時のアインシュタインは、貯金のほとんどを使い果たしてしまったそうです。有名税と言っていい話なのか、ホントに変なことに巻き込まれたものだなぁ、と感じるのではないでしょうか。

このように本書では、科学的ではない様々なエピソードも紹介していきます。

さて皆さんは、アインシュタインについてどのような印象を持っているでしょうか? ほとんど何も知らないという方でも、舌を出した有名な写真を見たことがあると思います。あの写真は、72歳の誕生日に撮られたもので、カメラマンに「笑って」と言われて”危うく”笑いそうになってしまったアインシュタインが、照れ隠しにとっさに舌を出した瞬間を撮ったものなのだそうです。別に普通に笑えばいいのにと思いますが、なんとも天邪鬼ですね。

しかし、撮った方はそんな呑気なことを言っていられません。というのも、この写真を雑誌に載せるかについて、編集部で大激論が起こったからです。アインシュタインが「照れ隠しに舌を出した」なんてことは当然知りませんから(アインシュタインは後のインタビューでそう明かしました)、「これはしつこいマスコミへの抗議に違いない。載せたら苦情が来る」という可能性を捨てきれませんでした。最終的には、編集長が「責任は俺が取る!」とカッコイイことを言って掲載さが決まります。アインシュタインはその写真をとても気に入り、9枚も焼き増しを頼んだそうです。

ちなみに写真の話で言えば、こんなエピソードもあります。アインシュタインは電車に乗っている時に乗客から「どっかで見たことあるなぁ。お仕事は何を?」と聞かれて、「写真のモデルです」と返したことがあるというのです。うんざりするぐらい写真を撮られていたことが伝わるでしょう。

また、その有名な写真がイメージの元になっているのだと思いますが、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のドク、「鉄腕アトム」の御茶ノ水博士、「名探偵コナン」の阿笠博士などアインシュタインをモデルにしたとされるキャラクターは様々にいます。特にドクの場合、飼い犬の名前が「アインシュタイン」なので、アインシュタインがモデルなのは間違いないでしょう。

そんなアインシュタインの偉大な業績の1つに挙げられるのが「相対性理論」です。今の日本では、アーティスト名としての方がよく知られているでしょうか。「相対性理論」がどういうものなのかについては<2つの相対性理論、解説するよ 編>で詳しく触れていますが、この理論は「史上もっとも巧妙な物理理論」(※2)と考えられています。バートランド・ラッセルという哲学者は、「今日までに人間の知力が成し遂げたもっとも偉大な総合的業績であろう」(※3)とまで言っているのです。

一般的に科学理論は、多くの人間が少しずつ成果を出し合うことで完成することが多いのですが、20世紀の科学を牽引することとなった2大理論の1つである「相対性理論」(もう1つは「量子論」)は、アインシュタインがたった1人で作り上げました。これ一つとってみても凄まじい功績でしょう。

また、アインシュタインの研究は存命中には理解されないことが多く、最近になってようやく検証されたものもあります。重力波の検出(詳しくは<ブラックホールってマジなんなん? 編>を)や、ブラックホールの直接観測(詳しくは<ブラックホールってマジなんなん? 編>を)など、アインシュタインの研究から派生したものは、その重要さが後から判明するものばかりなのです。

プリンストン大学の学長が、まさにそのことを予言していたかのような発言をしています。アインシュタインの死に際して、「アインシュタイン博士が、人類が自然を理解することに対して行った貢献は、今日ただちに評価することはできない。ただ未来の世代だけが、その意義のすべてをつかむことができるであろう」(※4)と弔辞を述べたのです。まさにその通りだと言えるでしょう。

アインシュタインの評価は凄まじく、アメリカの「タイム」誌1999年12月31日号は、「パーソン・オブ・ザ・センチュリー」(過去100年で最も影響があった人物)として、アインシュタインを選びました。また、アインシュタインはなんと、イスラエルの大統領に推されてもいます。当時73歳だったので、高齢を理由に断ったそうですが、科学の世界以外にも多大な影響を及ぼしていると言っていいでしょう。

アインシュタインの係累に知的な業績を成した者はおらず、またよく知られているように、アインシュタイン自身も子どもの頃は決して神童ではありませんでした。「何か問題があるのか」と親が心配するほど長い間喋らず、あまりにも無口だったために「退屈坊さん」というあだ名をつけられてしまったほどです。

教師は「将来ロクな人間にならないだろう」と考えており、助手として大学に残りたいと願っていたものの、誰もアインシュタインを助手として採用しませんでした。望む職には就けずしばらくの間役人として食いつないでいるような人物だったのです。

そんなアインシュタインが世界的に知られるようになったのには、様々な時代背景が関係しています。それらについては、特に<一夜の大バズリと激アツ復活劇 編>と<天才の超絶ダメダメ期 編>を読んでいただければ理解してもらえるでしょう。

とはいえ、アインシュタイン自身は、「私には特別な才能はありません。激しいほどの好奇心があるだけなのです」(※5)と語っています。また、アインシュタインのものとして知られている言葉には「神」という単語が散見されますが、次の言葉もその1つです。「わたしが知りたいのは、神がどのようにしてこの世界を作ったのかということだ」(※6)。まさに、むき出しの好奇心のみによって世界と向き合い続けたというわけです。そんなアインシュタインらしい、こんな言葉も知られています。「世界のもっとも理解できないことは、それが理解できることである」(※7)。

「世界の仕組みをとにかく知りたい」と研究し続けたアインシュタインだからでしょう。研究以外のことにあまりに意識が向いていないと感じるエピソードも多いです。例えばこんな話。ベルギーを旅行中のこと。道に迷ってしまったアインシュタインは、近くのバーに駆け込んで電話を借りました。アインシュタインは身なりに気を遣わない人だったので、怪しんだ店主が「どちらにおでかけで?」と声を掛けます。まさかアインシュタインだとは思いもしなかったのでしょう。それに対してアインシュタインは、「これからエリザベス王妃に会いに行くんです」(※8)と答えたのです。

ボロボロの身なりで、「エリザベス王妃に会う」などと口にする人物は、不審者だと判断されても仕方ありません。バーから出ると、2人の警官が待ち構えていたそうです。

日本旅行中のノーベル賞受賞発表に大歓喜

それでは、冒頭の別荘のエピソードの続きから再開しましょう。

すったもんだの挙句、結局自分たちで土地と家を買うことになってしまったアインシュタイン夫妻ですが、話はここで終わりません。このカプートの別荘は後に、ドイツの政治警察によって家宅捜索を受け、最終的に没収されてしまったのです。没収されたのは別荘だけではありませんでした。アインシュタインの50歳の誕生日に友人たちから贈られたヨット「アヒル号」を始め、銀行口座などすべての財産が没収されてしまったのです。表向きは、「アインシュタインの資産は、共産主義革命のための資金に使われようとしているから」という理由でしたが、本当のところはアインシュタインがユダヤ人だからでしょう。

ユダヤ人という出自は、長らくアインシュタインに苦労をもたらしました。アインシュタインは脅迫状を受け取ったこともあり、またその首に賞金が懸けられているという噂さえあったのです。ドイツを離れ、一時ベルギーに移住した際には、自宅に警備員が配備されたほどでした。結局アインシュタインは、最終的にはドイツを離れアメリカに亡命することになります。

アインシュタインはドイツ・シュワーベン地方の中都市ウルム出身ですが、子供の頃からドイツを離れたいと考えていました。ドイツの軍国主義を嫌っていたからです。実際、10代の頃に3マルクの手数料と共に「今後はドイツ市民ではない」という書類を提出し、それから5年間は無国籍として過ごしたことがあります。また、スイスのチューリッヒに住んでいた学生時代には、金持ちの親類から毎月受け取っていた100スイスフランの内20フランをスイスの市民権取得の費用のために取っておいたそうです。そして1901年、22歳の時にスイスの市民権を取得しました。

そのままスイスの市民権を手放さずに保持していれば、別荘の家宅捜索や資産の没収に、「外国人」として抗議できたかもしれません。しかしアインシュタインは、一度放棄したはずのドイツ国籍を、再び取得しているのです(だからこそ、ベルリン市が贈り物を計画することにもなったのでしょうが)。

しかし何故、あれほど嫌っていたドイツの市民権を再び手にすることになったのでしょうか。その理由には、アインシュタインが大人気だったことが関係しています。

きっかけはオランダのライデン大学から、「1年の間に数週間だけ来て講義してくれればいいよ」という条件で教授就任の話をもらったことでした。アインシュタインはその話を受けますが、ドイツの人たちからすれば気が気じゃありません。「このままアインシュタインがオランダに行っちゃったらどうしよう」と不安に駆られてしまったのです。

当時ドイツ国内では「反アインシュタイン運動」が起こっていたのですが、文部大臣から「反対運動なんか気にせずドイツに留まってね、お願い」という手紙を受け取っていました。それに答えるような形でアインシュタインは、「ベルリンは私がもっとも密接な人間的、そして科学的えにしで結ばれている場所です」(※9)とドイツに留まることを約束しており、さらに「そんなに心配なら、ドイツの市民権も取りますから安心してください」みたいなことを言ってしまったのです。

アインシュタインとしても、こんな些細な出来事が、まさか家宅捜索や没収などに関わってくるとは、夢にも思わなかったでしょう。人生ホント、何が起こるか分からないものです。

さて、国籍についてはもう1つ、興味深い話があります。ノーベル賞の授賞式でのことです。

アインシュタインは当然、ノーベル賞を受賞していますが、ストックホルムで行われた授賞式には出席していません。していないというか、できませんでした。何故なら、その頃アインシュタインは日本にいたからです。なんとノーベル賞受賞の知らせは、アインシュタインが日本へ向かう船の上でもたらされたのでした。そのこともあってアインシュタインは、日本で熱狂をもって迎えられます。例えば東京駅には1万もの人が集まったため、アインシュタイン夫妻は30分も身動きが取れなかったそうです。

日本訪問時の話はもう少し後で書くとして、ノーベル賞の話に戻りましょう。授賞式では、「不在のアインシュタインに代わって、誰が出席するか」を巡って、スイスとドイツでバトルが繰り広げられました。どちらも「自国民の栄誉」として、アインシュタインのノーベル賞授賞式に出たいと考えていたのです。前述した通り、アインシュタインはドイツ国籍もスイス国籍も取得していたので、双方の主張にはどちらも一定の説得力がありました。さて、どちらに軍配が上がったのでしょうか。

勝ったのはドイツで、駐スウェーデンのドイツ大使が壇上に上がりました。ドイツの主張が通ったのには、あるルールが関係しています。アインシュタインは1914年、ドイツのプロイセン科学アカデミーの会員になっているのですが、「その会員はドイツ国民である」というルールが存在したのです。ドイツとしてはしてやったりと言ったところでしょうが、「ドイツ国民」として評価されることになったアインシュタインは複雑な気持ちだったかもしれません。

それでは、アインシュタインの日本旅行について書いていくことにしましょう。

実はアインシュタインは友人の科学者ラウエから、「噂によると、君は12月にはヨーロッパにいた方がいいらしいぜ」と、明言こそされないまでも、ノーベル賞の受賞を匂わせるような話を聞いていたようです(※10)(昔は今ほど情報管理が厳しくなかったということでしょうか)。それでもアインシュタインは日本行きを決行します。この時の日本訪問は、「改造社」という出版社が企画し、招待したものであり、もちろん「契約を履行する」という理由もあったでしょう。しかし一方で、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の本を読んで日本に対する憧れを元々持っていたことも大きかったはずです。

当時のヨーロッパ人にとって日本というのは興味深い国だったようで、アインシュタインは、「私が日本に招聘されたということをみんなが知ったときほど、私がベルリンで羨ましがられたことは、それまでの人生で一度もありませんでした。というのもわが国では、日本ほど神秘のヴェールに包まれている国はないからです」(※11)とまで言っています。

しかし、日本に対する興味はあったものの、日本人に対して良い印象を抱いていたわけではありません。アインシュタインは日本旅行中に日記を書いており、それがちゃんと残っているのですが、10月31日には、「日本人は非常に敬虔。国家イコール宗教という不気味な連中」(※12)と書いています。

実はこの日、アインシュタインが日本に向かうために乗っていた船では、天皇誕生日が祝われていました(本来、昭和天皇の誕生日は8月31日ですが、「暑い盛りにお祝いをするのは困難」ということで、1914年以降は「10月31日に天皇誕生日を祝う」ということになっていたようです)。万歳や国歌斉唱などを見て、「不気味」と記したのでしょう。また天皇に関しては、「天皇は神の地位にある。本人にとってはとても厄介なことだ」(※13)とも書いています。

他にも11月3日には、中国人と比較する形で「日本人は信用できないと見なされていて比べものにならない。日本人の心理を理解するのは困難だ。私は日本人の歌があんなに訳がわからなかったので、日本人を理解しようと思わなくなった。昨日、他の日本人がまた歌っていたので目がくらんでしまった」(※14)なんて書いていたりするのです。なかなか辛辣な感覚でしょう。

しかし、日本滞在によって、イメージは劇的に変わったようです。アインシュタインはインタビューで、「自然に適応した日本人の生活ぶりは限りなく貴重だ。もし可能なら私はこの日本のライフスタイルを一生味わいたい。もし状況が許せば私は今後日本に住みたい」(※15)と、日本での生活の快適さについて答えています。これだけなら、表向きの繕った感想に思えるかもしれませんが、そうではありません。というのも、2人の息子に宛てた手紙で、「ところで、日本人のことをお父さんは、今まで知り合ったどの民族よりも気に入っています。物静かで、謙虚で、知的で、芸術的センスがあって、思いやりがあって、外見にとらわれず、責任感があるのです」(※16)と絶賛しているからです。何はともあれ、良いイメージに変わったようで良かったなと思います。年の瀬には、道端で行われていた餅つきに飛び入り参加したりもしたそうです。

アインシュタインを招待した改造社は、日本各地で講演を企画し、もちろん大盛況となりました。神田で行われた講演では、入場券を持っているのに会場に入れなかった人もいたとのことで、改造社はそういう人たちに、次に講演が行われる仙台までの往復運賃を支払って対応したそうです。「どうせキャンセルする奴もいるだろう」と多目に売ったら、みんな来ちゃったのでしょう。

日本での講演に関しては、こんなエピソードも知られています。アインシュタインは当然日本語が喋れず、通訳を介すことになるので、一度の講演が4時間を超えてしまいました。アインシュタインは、「言葉も分からないのに、こんなに長く話を聞いてもらっているなんて申し訳ない」と思い、次の講演は2時間半で終わらせたそうです。しかし残念ながら、そんなアインシュタインの気遣いはまったく伝わりませんでした。アインシュタインは講演後に、「前は4時間だったのに、今回2時間半に短縮されたことで、『馬鹿にされた』と観客が感じている」という反応を耳にし、驚いてしまったそうです。ある意味で、日本人らしい反応と言えるでしょうか。

アインシュタインは、日本に到着する直前にノーベル賞受賞の知らせを耳にしたにも関わらず、書き続けていた旅行記にはノーベル賞についての記述は一切ありません。もちろん、アインシュタインはノーベル賞受賞を喜びました。ただ、その理由が、ちょっと変わっています。ノーベル賞を受賞して良かった理由をアインシュタインは、「どうしてあなたがノーベル賞を受賞しないのかと、非難を込めながら聞かれることがもはやなくなったからです」(※17)と答えているのです。それまではそう聞かれる度に、「私はノーベル賞に値する人間ではないからだ」(※18)と答えていました。アインシュタインらしいエピソードだなという感じがします。

受賞理由は「相対性理論」じゃない”嫌われもの”

さて、最初に触れた通り、アインシュタインは「相対性理論」でノーベル賞を受賞したわけではありません。受賞理由は「光電効果」であり、これは「光量子(光子)」と呼ばれるものと関係するのですが、それらについては<全部ボロカスに批判されるやん 編>で詳しく触れました。

ここでは、「どうして『相対性理論』で受賞しなかったのか」について書こうと思います。

理由はいくつかあるのですが、まず身も蓋もない理由から説明すると、「スウェーデン王立科学アカデミーに相対性理論をちゃんと理解できる人がいなかったから」です。当然ですが、世界中の物理学者から相対性理論を推す声が届いていました。しかし何故か、相対性理論に対する「批判的な意見」を重視して取り上げたり、あるいは、物理学者ではなく眼科医が評価に関わっていたりと、なかなか適切には受け取られていなかったようです。

また、こんな理由もあります。ノーベル賞を創設したアルフレッド・ノーベルは、「『人類が非常に大きな利用価値を引き出したような最近の発見』に対して賞を与えるべきだ」と規定しました。そして相対性理論は、この規定にそぐわないと考えられたのかもしれません。というのも、当時はまだ相対性理論は正しく捉えられておらず、「発見」ではなく「事実をより適切に説明するもの」でしかないと考える者もいたからです。また、相対性理論(一般相対性理論)は、発表から40年もの間無視されていました。「間違っている」と受け取られていたわけではありません。その正しさは観測によって証明されていたのですが、「何の役に立つのか分からなかった」のです。だから、「利用価値」という点からも相応しくないと言えます。

さらに、「科学理論」にすぎない相対性理論は、何故か「政治的な論争」に巻き込まれている最中でもありました。そんな状態で、王立科学アカデミーが相対性理論にノーベル賞を与えてしまえば、火の粉が飛んできてしまうかもしれません。

そういう様々な理由から、相対性理論での受賞とはならなかったというわけです。

とはいえ、受賞理由に関係する「光量子」に問題がなかったわけではありません。むしろ、かなりの問題児でした。というのも、アインシュタインがノーベル賞を受賞した当時でさえ、「光量子」の存在を信じている科学者はほとんどいなかったからです。

そのような状況だったため、王立科学アカデミーは選考に大いに苦労しました。アインシュタインにノーベル賞を与えたいけれども、相対性理論を受賞理由にするとややこしくなってしまいます。一方、「光量子」という考え方そのものに対してノーベル賞を与えると、当時の科学界ではまったく支持を集めていなかったアイデアにお墨付きを与えることになりかねません。そこで王立科学アカデミーは、「光電効果を説明する方程式を発見したこと」に対してノーベル賞を与えるという決断をしました。ノーベル賞1つとっても、アインシュタインにはこれほどのドラマがあるのです。

さて、「光量子」を信じる科学者は”ほとんどいなかった”と書きました。当時、アインシュタインを除いて唯一「光量子」を支持していたのが、シュタルクという科学者です。アインシュタインにとっては、とても心強い味方だと言っていいでしょう。

しかし歴史の皮肉と言うべきか、シュタルクは後にアインシュタインの”敵”となる人物でもあります。アインシュタインがユダヤ人であることをあげつらい、「ユダヤ物理学」を徹底的に批判する集団の急先鋒としてその名を轟かせることになるのです。彼らの活動が次第に勢いを増していったことで、ユダヤ人科学者の著作は焼かれ、さらにユダヤ人が大学で教鞭を取れなくなっていきました。相対性理論に関する本も、ベルリンの国立歌劇場前の広場で焼かれたそうです。

また、シュタルクと共に「反ユダヤ物理学」を先導したレナルトという科学者は、アインシュタインのノーベル賞受賞理由である「光電効果」に関する研究でノーベル賞を受賞しています。これもまた皮肉な話でしょう。アインシュタインのノーベル賞受賞理由に密接に関係する2人の科学者が、共謀してユダヤ人物理学者を排除する活動の先陣を切っていたという事実には、なんだか複雑な気持ちにさせられました。

シュタルクとレナルトがどれほど「ユダヤ物理学」を嫌ったかが伝わる印象的なエピソードがあります。

科学史上最も有名だろう方程式「E=mc2」は、アインシュタインが生み出したものであり、物理学において重要な式です。そのため、物理学者が論文を書く際には、避けては通れない方程式でもあります。しかし、「ユダヤ物理学」を毛嫌いする一派としては、「E=mc2」がアインシュタインの功績だとはどうしても認めたくありません。そのため彼らは、論文などでは「ハーゼンエルルの法則」と記載しています。これは、ハーゼンエルルという科学者が提唱したもので、「E=mc2」の特殊な状況における法則について記述したものです。「どうしてもアインシュタインの名前を出したくない」という執念が感じられるのではないかと思います。

しかし面白いもので、当のハーゼンエルルは有能で真っ当な科学者であり、ユダヤ人だからといってアインシュタインを批判するような人物ではありませんでした。むしろ、アインシュタインの熱心な信奉者だったそうです。

さて、「光量子」に関しては時代に反してアインシュタインを支持しつつ、その後「ユダヤ物理学」を徹底的に批判したシュタルクですが、もう少し間接的な形でもアインシュタインと関わっています。

シュタルク自身も著名な科学者であり、ノーベル賞を受賞しているのですが、彼のノーベル賞受賞はまったくと言っていいほど話題にはなりませんでした。何故でしょうか。実はここにアインシュタインが関係しているのです。

シュタルクがノーベル賞を受賞したのは1919年。そしてまさにこの年に、アインシュタインは全世界で有名になったのです。アインシュタインを一夜にして有名にしたの、とある日食の観測で、この観測によって、アインシュタインが提唱した一般相対性理論の正しさが証明されました。このニュースは世界中を駆け巡り、科学に関する話題はアインシュタイン一色となってしまったのです。1919年はシュタルクに限らず、あらゆる科学者の功績が霞んでしまったことでしょう。運が悪かったとしか言いようがありません。

日食観測については<一夜の大バズリと激アツ復活劇 編>で詳しく触れています。

2つの相対性理論、解説するよ

「特殊相対性理論」って何ですか?

それではまず、特殊相対性理論の話から始めましょう。

まずは用語の整理から。「相対性理論」というのは総称であり、「特殊相対性理論」と「一般相対性理論」に分かれます。この2つの一番大きな違いは、「一定の速度で動いているかどうか」です。一定の速度で動くものに関係するのが「特殊相対性理論」、そして「一定の速度で動いている」かどうかに関係なくどんな状況にも適用できるのが「一般相対性理論」となります。

例えば、ずーっと真っ直ぐな道(カーブがあると加速・減速が発生してしまう)を、まったく速度を変えずに走る車には「特殊相対性理論」を当てはめられるというわけです(ただし、車程度の速度のものには特殊相対性理論的効果はまったく現れません)。物理の世界ではこのような運動を「等速直線運動」と呼びます。

「等速直線運動」という非常に限られた状況にしか当てはめられないから「特殊」と名前がついている、と考えれば覚えやすいでしょう。そして、そういう「特殊」な状況ではなく、「一般」的などんな場合にも適用可能なのが「一般相対性理論」ということになります。

この「相対性理論」という名前、日本では実はちょっとした混乱をもたらしたようです。先程触れた通り、日本訪問によって国内で一気に話題を集めたアインシュタインですが、彼がどんな研究をしているのか理解している人ばかりではありませんでした。というか、当時は一流の科学者にとってももの凄く難しいと思われていた理論なので、一般の人にはほとんど理解不能だったことでしょう。

日本でも相対性理論は大ブームとなり、関連書籍がたくさん発売されましたが、「相対」を「あいたい」、つまり「男女愛」と勘違いし、さらに「性」の字も入ることもあって、字面から「セックス本」と勘違いして買う人が相次いだのだそうです(嘘みたいな話ですよね)。その噂はなんと、帝国議会でも話題になるほどだったと言われています。

当然、世界でも相対性理論は大ブームとなり、ある人物が、「相対性理論について3000語以内で説明する文章」を募集するコンテストを開こうと考えました。一番優秀だった作品に5000ドルの賞金をあげるという企画でしたが、思ってもみなかった問題が発生します。なんと、審査員が見つからなかったのです。何故でしょうか。当然のことですが、その審査を引き受けられるくらい相対性理論について詳しい人ほど、このコンテストに参加したいと考えたからです。結局コンテストは無事開催されたみたいですけどね。

来日の際、京都大学で行われた講演のタイトルは「いかにしてわたしは相対性理論を創ったか」でした。しかしアインシュタインは、「相対性理論に到達したプロセスを語るのは難しい」と断ることから始めます。アインシュタインは、研究に関する下書きだけではなく、特殊相対性理論の論文の原本さえも捨ててしまっていました。自分でも、後からその思考を辿るのは難しかったのでしょう。ちなみにアインシュタインは寄付のために、特殊相対性理論の論文を自ら書き直しオークションにかけたこともあります。本人の手によるものとはいえ、原本ではなく複製にも拘わらず、600万ドルで売れたそうです。

到達したプロセスを辿るのは難しいものの、特殊相対性理論に関しては、アインシュタインの有名な思考実験が知られています。思考実験というのは、実際に道具などを使って行うものではありません。実際に行うことが不可能な実験を、頭の中だけでやってみるということです。

アインシュタインは学生時代、次のようなことを考えました。「もし光を、光の速度で追いかけたらどうなるのだろうか」。これをもう少し分かりやすく説明すると、「手に持った鏡に自分の顔が映っている状態で光の速度で進んだ時、その鏡に自分の顔は映るだろうか」という問いになります。どういうことか、分かるでしょうか?

まず、「鏡に何かが映る」という状況について考えましょう。これは、「鏡に光が届いて反射する」ということです。「鏡に自分の顔が映る」であれば、「自分の顔で反射した光が鏡に届き、鏡で反射した光が自分の目に届く」という現象になります。

ではここで、鏡を壁に、光をボールに置き換えてください。こうすると、「鏡に自分の顔が映る」という現象は、「ボール(光)を壁(鏡)に向かって投げ、それが跳ね返って自分の手元に戻ってくる」と捉えられるでしょう。

さてそれでは、壁とあなたが共に光速で同じ方向に進んでいるとします。この時、「ボールを壁に向かって投げ、それが跳ね返ってくる」ためには、「ボールが光速よりも速く壁に向かって飛んでいかなければならない」のですが、意味が分かるでしょうか? 壁も自分も同じ光速で進んでいるので、光速より少しでも速くボールが動かなければ壁には辿り着けないのです。

しかし、この例における「ボール」は、実際には光のことを指しています。つまり、先のアインシュタインの思考実験に話を戻すと、「鏡と自分が共に光速で進んでいる時に、鏡に自分の顔が映る」ためには、「自分の顔で反射した光が、光速よりも早く鏡に向かって進まなければならない」のです。しかし、「光速」というのは「光が進む速度」なのですから、「光が光速よりも早く進む」というのは矛盾していると言えるでしょう。ではもし、実際にこんな実験を行えたとしたら、鏡に自分の顔は映るのでしょうか?

アインシュタインはこのようなことを考えたわけです。

結論から言えば、アインシュタインの思考実験を実際に行った場合、鏡に顔は映ります。そして特殊相対性理論は、まさにその理由を説明した理論なのです。

アインシュタインは「光はどんな運動をしている人が見ても同じ速度に見える」と考えました。しかしこの考えは、日常的な感覚からかけ離れているのです。

基本的に「速度」というのは、「自分の速度」と「相手の速度」の相対的な関係性で決まります。例えば、片側2車線の真っ直ぐな道路を、A・Bという2台の車が共に時速100kmで同じ方向に並走しているとしましょう。この時、車Bから車Aを見れば、「止まっている」ように、つまり「時速0km」のように見えるでしょう。「速度」について考える場合、「何に対しての速度」なのかがとても重要です。車Aは、「地面(地球)に対しては時速100km」ですが、「Bに対しては時速0km」となります。つまり、「地面に立っている人から見る場合」と「車Bに乗っている人から見る場合」とでは、車Aの速度は”違って見える”ということです。

これが日常的な感覚でしょう。

しかしアインシュタインは、「光だけは例外だ」と主張しました。光速は「秒速約30万km」ですが、光速で飛ぶ宇宙船から光を見ても、やはり秒速約30万kmに見えるというのです。これは、先程の例(どちらも時速100kmで並走しているA・Bの車)で言えば、「車Bから車Aを見ると時速100kmで走っているように見える」ということになります。そんなことはあり得ませんが、光速の場合は異なるというわけです。

このような「どんな人から見ても光の速度は一定だ」という考え方を、物理学の世界では「光速度不変の原理」と呼んでいます。

「光速度不変の原理」は、マクスウェルという科学者が生み出した方程式から導かれるものです。奇しくも、マクスウェルが亡くなった年に、アインシュタインが生まれています。

マクスウェルは、ファラデーという科学者が考えた電磁場理論を元に「マクスウェルの方程式」を導き出し、電磁気学を確立した凄い人です。そしてこの「マクスウェルの方程式」を解くと、自然に「光の速度」が導き出されます。方程式を解くと、「光速は秒速約30万kmである」と答えが出てくるのです。

方程式を解けば答えが導き出されるのは当たり前だと思うかもしれませんが、光の速度に関してはそう簡単な話ではありません。先述した通り、「速度」について考える時は「何に対しての速度」なのかを理解することが非常に重要です。しかし「マクスウェルの方程式」は、「光の速度」を導いてくれるのですが、それが「何に対しての速度」なのかは教えてくれはしません。そのため当時の科学者たちは困ってしまったのです。

この難問は特殊相対性理論によって解決されたわけですが、アインシュタイン以前の科学者たちは、間に合せの解決策を用意することにしました。「『エーテル』という物質が存在する」と仮定したのです。

そもそも光には別の問題もありました。「何を伝わっているのか」という問題です。

例えば、海を伝わる「波」は水を、そして「音」は空気を伝わるものであり、水や空気などの「波の動きを伝える物質」は「媒質」と呼ばれています。同じように、光もなんらかの「媒質」を伝わると考えられていたのですが、その正体はまったくの不明だったのです(光は真空である宇宙空間でさえも伝わるので、「空気」が「媒質」なのではありません)。

そこで科学者たちは、「エーテル」という物質が「媒質」だと考えることにしました。誰も見たことも感じたこともないけれど、宇宙全体には(つまり私たちが普段生活している空間にも)「エーテル」という物質が存在していて、それが光を伝えているというわけです。その後、「マクスウェルの方程式」から導き出された光の速度は、「エーテルに対する速度」だと考えられるようになっていきます。

誰一人として観測したことはないのに、「エーテル」は「当然存在するもの」として扱われていました。かつてロシアの百科事典には、「エーテルは一種の物質であって、他のすべての物質とまったく同様な客観的実在性をもっている」(※19)と書かれていたそうです。また、アインシュタインも当初はエーテルの存在を信じていて、どうやったら観測できるかその方法を考えてもいました。誰も見たことがないのに科学者の誰もがその存在を信じていたのは、「『エーテル』の存在を仮定しなければ、光の性質がまったく理解できなくなってしまう」という事情があったわけです。

当然のことながら、「誰も見たことがないなら俺が観測してやる」という科学者が出てきます。その実験で非常に有名になり、ノーベル賞まで受賞したのがマイケルソンとモーリーです。そして、「マイケルソン・モーリーの実験」として知られるこの観測によって、科学者がおったまげる結果が導き出されました。

なんと、「エーテル」なんて物質は存在しないことが判明してしまったのです。

一番驚いたのは、この実験を主導したマイケルソン自身でしょう。何しろ彼は、エーテルを観測しようと思ってこの実験を計画したのだし、エーテルの存在を当然のように信じていたからです。

特殊相対性理論を発表した時点で、アインシュタインがこの実験結果を知っていたかどうかについては諸説あり、はっきりしたことは分かりません(ただし本によっては、「アインシュタインはこの実験結果を知らなかった」と断言しているものもあります)。今とは違ってインターネットなどありませんから、アメリカで行われた実験の結果がドイツまで届くには時間が掛かったことでしょう。また、特殊相対性理論を発表した当時のアインシュタインは、助手や教授などではなくただの役人でした。最新の実験結果をすぐに知れる立場ではなかったはずなので、「知らなかった」と考えるのも妥当かもしれません。

いずれにしても、アインシュタインが特殊相対性理論を発表する直前の科学界は、「どうやら『エーテル』は存在しないらしいぜ。でもそんなことあり得るか?」という混乱状態にあったと言えるでしょう。そこにアインシュタインが、「『エーテル』なんか無くたって大丈夫」と特殊相対性理論を引っさげて登場したということになるわけです。科学界は仰天したことでしょう。

アインシュタインの解決策は要するに、「光がもたらす不思議な現象を光が持つ『元々の性質』だと捉えることにする」というものでした。「光はどんな媒質を伝わってくるのか?」ではなく、「光は媒質が無くても伝わる性質がある」と、そして、「光は何に対して秒速約30万kmなのか?」ではなく、「光はどんな立場の人に対しても秒速約30万kmの速度を持つ性質がある」と考えたわけです。

ンな乱暴な、と感じるかもしれません。しかしアインシュタインは、このような光の性質を前提にし、さらに「相対性原理」(紛らわしいですが、「相対性理論」とは別物です。詳しくは<ぶっ飛び天才揃い踏み 編>を)という考え方を組み合わせることで、「エーテルが存在せず、かつ、光が誰に対しても常に一定の速度を持つ世界」がどのようなものになるのかを記述したのです。これが特殊相対性理論の要点となります。

特殊相対性理論が描き出すのは、普通には理解しがたい非常に奇妙な世界です。

例えば、早く動けば動くほど、時間はゆっくり進みます。これは数々の実験によって証明されている事実です。例えば、新幹線程度の速度で移動する場合でも、東京から博多へ行く間に、新幹線に乗っている人の時計は、新幹線に乗っていない人の時計と比べて10億分の1秒ほど遅れます。また、秒速7.8kmで動いている国際宇宙ステーションに1年間滞在すると、地球の時間と比べて0.01秒ほど時間が遅れるのです。

これは、時計が故障しているとか、時間が遅れているように錯覚しているみたいな話ではありません。実際に時間が遅れているのです。その象徴的な例がミューオンでしょう。ミューオンというのは非常に不安定な素粒子で、停止した状態では寿命が100万分の2.2秒ぐらいしかありません。この場合、ミューオンが仮に光の速度で進んでも、最長600mほどしか移動できない(600m進んだら崩壊し、ミューオンとしては存在できなくなる)ことになります。しかし不思議なことに、宇宙から降り注ぐミューオンを地上で観測することができます。何故不思議かと言えば、地球の大気圏の厚さはおそよ20kmもあるからです。寿命のことを考えれば、ミューオンが地球の大気圏を突き破って地上まで来られるはずがありません。しかしミューオンは、非常に速いスピードで動いているので、特殊相対性理論の効果によって寿命が伸びています。そしてそのお陰で、大気圏を突き破るほどの距離を移動できるというわけです。

この時間の遅れをうまく利用すれば、未来に行くタイムマシンを作ることも可能で、実際にアインシュタインもそのようなタイムマシンの実現性を検討していました。メチャクチャ速く飛べる宇宙船を開発して、しばらく宇宙旅行をしてから地球に戻ってくれば、自分の体感としては1年ぐらいしか経ってないのに、地球では100年ぐらい時間が経過している、なんてことが可能なのです。とはいえ、秒速7.8km(時速に直すと約2.8万km)で動く国際宇宙ステーションに1年いても0.01秒しか時間のズレは生じないので、未来行きのタイムマシンはかなり遠い夢だとは思います。

ここまでの説明を聞く限りでは、「特殊相対性理論は我々の日常生活にはまったく関係なさそうだ」と感じてしまうかもしれません。しかし実は、私たちが毎日のように使っていて、生活必需品と言ってもいいある物に利用されています。それはグーグルマップです。グーグルマップに限る話ではなく、「GPSを利用しているすべてのもの(カーナビもそうです)」は、特殊相対性理論(と一般相対性理論)が無ければまったく使い物になりません。

GPSは人工衛星を利用して位置情報を取得するわけですが、人工衛星はメチャクチャ速く動いているので、地球と比べて時間がゆっくり進みます。様々な効果を加味すると人工衛星の時計は地球上の時計と比べて1日で39マイクロ秒(0.000039秒)遅れてしまうのです。大したことないじゃん、と感じるかもしれませんが、39マイクロ秒の差は、距離に直すと12kmとなります。つまり、特殊相対性理論を使ってこの時間の遅れを補正しなければ、グーグルマップやカーナビは、現在地から12kmも離れた地点を指し示してしまうことになるのです。そんなものは、使い物になりませんよね。我々は日々、特殊相対性理論の恩恵を受けているのです。もしも、特殊相対性理論よりGPSの仕組みの方が速く生まれていたら、人類は「謎のズレ」を補正できずに、GPSという技術を諦めていたかもしれません。アインシュタインに感謝ですね。

しかし、「特殊相対性理論がGPSに使われている」という事実に一番驚くのは、恐らくアインシュタインでしょう。アインシュタインは、特殊相対性理論が実用の役に立つなんて、まったく想像してなかったはずだからです。このような点からも、「その研究は何の役に立つのか?」という質問の無意味さを感じられるかもしれません。

ちなみに、GPSは元々軍事目的で開発されたのですが、韓国の旅客機が誤ってソ連の領空内に迷い込み撃墜されるという事故が起こった際、レーガン大統領が、「民間でもこのシステムが使えるように」と指示を出して普及したそうです。

さて、アインシュタインが指摘した「時間の遅れ」は、今聞いても不思議な話ですが、当然ながら発表当時も大きな衝撃をもたらしました。それまで「時間は誰にとっても平等に同じように流れている」というのが常識で、誰もそのことを疑いもしなかったのに、アインシュタインはその考えにNOを突きつけたのです。また、アインシュタインの主張は、「出来事の同時性」にも疑問を投げかけました。あなたが「同時に起こった」と受け取った出来事を、別の人が「同時には起こらなかった」と判断することもある、ということです。科学の帰結とはとても思えないでしょう。

また特殊相対性理論は、時間だけではなく、長さについても相対的なものだと指摘しました。特殊相対性理論によれば、速く移動するものの長さは短くなるというのです。これも「短くなったように見える」のではなく、実際に短くなります。ただ、長さを測るものさしも同じように短くなるので、私たちはなかなかその事実に気づけないのです。

この辺りの話はとても面白いので、是非、相対性理論に関する本を読んでみてください。

ちなみに、「光速度不変の原理」に関するよくある誤解として、「光速以上の速度は許容されない」というものがありますが、これは間違いです。「光速度不変の原理」は、「光よりも遅く進むものが、光の速度を超えてはいけない」と主張しているだけで、「元々光より速く進むもの」の存在まで否定しているわけではありません。この、「元々光より速く進むもの」は「タキオン」と呼ばれていますが、「タキオンは存在しない」と考える科学者の方が多いようです。つまりまだ、「光より速く進むもの」は見つかっていません。

特殊相対性理論を発表した時、アインシュタインは弱冠26歳。しかも科学者ではなく一介の役人でした。科学界ではまったく無名の存在だったのです。だからこそ、それまでの常識をことごとく打ち破るような理論を見出し発表する過程で、大いに葛藤しました。取り乱したり、茫然自失になったりしたそうです。それでも、自ら導き出した結論を信じ、発表するに至りました。

「一般相対性理論」って何ですか?

それでは、「一般相対性理論」の話に移りましょう。この理論は、「特殊相対性理論」以上に奇妙な形で生み出されました。というのも、アインシュタインが一般相対性理論を発表した当時、「そのような理論が必要とされる状況」ではまったくなかったからです。

特殊相対性理論については、「『光の問題』を解決したい」という動機が背景にありました。「科学の世界に存在する難問を解き明かしたい」という発想から生み出された理論というわけです。しかし一般相対性理論はそうではありません。アインシュタインがこの理論を生み出した理由には、「特殊相対性理論では世界を記述するのに不完全だ」という感覚しかなかったのです。

特殊相対性理論は「速度が変わらない」という「特殊」な状況でしか使えない理論でした。加速や減速がある運動には使えないし、当然、重力を記述することも出来ません。だからアインシュタインは、「とにかく特殊相対性理論を改良したい!」という純粋な興味から研究を進めたのです。当然、特殊相対性理論を改良したところで、それが何か実用的な価値を持つなどとは考えていませんでした。

一般的に科学理論は、「既存の理論では説明できない現象・実験」が先に存在し、「その現象・実験を説明するために理論が生み出される」という流れになることが多いです。しかし、アインシュタインが一般相対性理論を発表した当時は、「一般相対性理論でなければ解決できない問題」はほとんど存在しませんでした。一般相対性理論は、純粋にアインシュタインの探究心のみによって生み出された理論だというわけです。

そんな理論だったため、一般相対性理論が現実に存在する問題を解決したという事実は科学者を驚かせました。それが「水星の近日点移動」の問題です。「水星の軌道が、万有引力の法則から少しズレている」という何十年もの間天文学者を悩ませ続けた難問でした。そしてアインシュタインは、自身が生み出した「実用的な価値を持つとは思えなかった理論」を「水星の近日点移動」に当てはめてみたところ、見事に現象を説明することに気づいたのです。この成功にアインシュタインは大いに興奮し、「何かがパチンといった」ように感じたそうです(※20)。

「水星の近日点移動」がどれほど難しい問題と捉えられていたのかは、こんなエピソードから伝わるかもしれません。アインシュタインの友人のラウエが、「もし、水星の近日点移動の説明に成功したら、あなたの理論を信じよう」(※21)と言ったのだそうです。勝手な予想ですが、「説明できるわけないっしょ」ぐらいの気持ちだったんじゃないでしょうか。そして、実際に一般相対性理論によって「水星の近日点移動」が解決されたことで、ラウエはアインシュタインの信奉者になりました。

しかし、一般相対性理論を作り上げるのには相当な苦しみを伴ったようで、発表した直後、アインシュタインは病に倒れてしまいます。アインシュタイン自身もその大変さについて、「手紙を書く時間も見つけられないほどです。昼もよるも、脳みそを拷問にかけるように絞り上げている」(※22)「一般相対性理論を作る仕事に取り組んでいたとき、その苦労にくらべれば、特殊相対性理論は『子どもの遊び』のようなものだった」(※23)と語っているほどです。

<ぶっ飛び天才揃い踏み 編>で、当代最高の数学者であるヒルベルトとどちらが先に論文を出すかで争ったという話を書いているのですが、世界最高峰の数学者が首を突っ込んでくるぐらい、当時としては難解な数学が使われていることも、その一因と言えるでしょう。特殊相対性理論をいち早く評価したプランクさえも、一般相対性理論に取り掛かっているアインシュタインに向かって、「だいいち、きみは成功しないでしょう。そしてたとえ成功したとしても、誰もきみの言うことを信用しないでしょう」(※24)と忠告しています。

物理を専攻する大学生なら、一般相対性理論を授業で習うそうですが(私は大学を2年で中退しているので詳しくは知りません)、一般相対性理論の計算というのは、とにかく地味で大変みたいです。ある科学者が、「今でこそ、『これは意味のある計算だ』と思えるからやれるけれど、こんな計算がよく重力に関係していると思えたものだ」みたいなことを本に書いているのを読んだことがあります。どれだけややこしい計算をしなければならないか、何となく伝わるでしょう。

さてそれでは、特殊相対性理論を一般相対性理論に拡張する上で、一体何が問題になったのか説明していきます。最大の問題は「重力」でした。

そもそもの問題は、ニュートンが生み出した「万有引力の法則」と、アインシュタインが生み出した「特殊相対性理論」が、矛盾することです。そしてこの矛盾を解消するために一般相対性理論が必要だったということになります。

この点について説明するために、まずはニュートンの万有引力の法則において、「重力」がどう扱われていたのかを見ていくことにしましょう。

ニュートンの理論では、「重力」は「謎の遠隔作用」でした。つまり、「仕組みは理解できないが、とにかくどれだけ遠く離れていても一瞬で力が及ぶ」ということです。この点は大きな問題でした。

万有引力の法則は、「すべてのモノは引き合っている」と主張します。地球がリンゴを引っ張るのと同時に、リンゴも地球を引っ張っているというわけです。この場合、リンゴも地球も、接していない状態で力が働いていることになります。ニュートンの時代には、「力は接した状態で発生する」と考えられていたので、「重力」は謎めいた力でした。しかもニュートンの理論では、「物体同士がどれだけ遠く離れていても、重力は一瞬で伝わる」ことになっていたのです。

このように、ニュートン理論における「重力」は、どういうメカニズムなのか説明できない謎めいた力でしかありませんでした。

そして、「力が一瞬で伝わる」という点が、特殊相対性理論と矛盾するというわけです。特殊相対性理論では「光速度不変の原理」が重要でした。これは「光より速く運動することはできない」という制約です。しかしニュートン理論における「重力」は、どんなに遠くであっても一瞬で伝わることになっていたので、これは明らかに「光より早い運動」であり、特殊相対性理論と矛盾してしまいます。

要するに、ニュートンは「あらゆる運動を記述する素晴らしい方程式」を作ったけれど、「重力って何?」という問いには答えられなかったのです。

そして、この問いに明確な答えを出したのが、アインシュタインの一般相対性理論ということになります。その答えにたどり着くきっかけとなったのは、後年アインシュタインが「人生最大のひらめき」と呼んだ「等価原理」というアイデアです。

この「等価原理」を説明するためにはまず、「質量」と「重さ」の違いを理解してもらう必要があります。今この文章を読んだ方は、「『質量』と『重さ』って同じじゃないの?」と思ったことでしょう。実は科学の世界では、この2つは区別されているのです。

「質量」というのは「物体固有の量」で、測る場所によって変わることはありません。一方、「重さ」というのは「物体に働く重力の大きさ」のことで、測る場所によって変わります。例えば、体重60kgの人は、地球上では「質量:60kg」「重さ:60N」ですが(「N(ニュートン)」は重さの単位)、重力が1/6の月面上では、「質量:60kg」「重さ:10N」となるのです。

このように、「質量」と「重さ」は別物なのですが、地球上では「質量」と「重さ」は同じ値を示します。最近の実験では、10兆分の1の精度で両者が一致していることが分かっているそうです。「質量」と「重さ」が同じものだと思っていると、何が問題なのか分かりづらいですが、科学の世界では、「質量」と「重さ」というまったく性質の異なるものが同じ値を示す理由が長らく謎とされてきました。ニュートンもこの問題に気付いてはいましたが、万有引力の法則では両者が一致する理由を説明できず、「偶然一致しているだけだ」と考えるしかなかったのです。しかし、アインシュタインの「等価原理」によって、その謎に突破口が開かれることになります。

「等価原理」によってアインシュタインがたどりついた発想は、「落下している人は重力を感じない」という、文章にすると「まあ当たり前っしょ」というものでした。

よく使われる例は、エレベーターです。エレベーターが上昇している時は、床に押し付けられるように感じます。まるで「重力」が増しているかのようです。反対に、エレベーターが下降している時は、「重力」が減ったように感じるでしょう。アインシュタインは、「重力」が増えたり減ったりしているように“感じる”のではなく、実際に増えたり減ったりしているのだ、と指摘しました。つまり、「加速度が生み出す力(エレベーターの上下の移動で発生する力)」と「重力」は“区別がつかない”ということです。これが「落下している人は重力を感じない」の説明となります。

そして、この「等価原理」の考え方を使うことで、ニュートン理論では説明がつかなかった「『質量』と『重さ』が一致すること」に対する理解が進むことになったのです。

この発想をさらに深化させることで、アインシュタインは、それまで誰も思いつかなかったあるアイデアに達します。それが「重力は力ではない」という発想です。意味不明ですよね。でも、本当なんです。

力じゃないなら一体なんなのでしょうか。アインシュタインは、「重力とは、空間の歪みである」と主張しました。

この説明のためによく使われるのが、ピンと張ったシーツです。シーツの4隅を4人で持ってピンと張った状態を想像して下さい。そしてそのシーツの上に、重いボウリングの球を置いてみましょう。この時、シーツがボウリングの球の重さに従って沈み(歪み)ますよね。その状態のまま、シーツの上に軽いピンポン玉を置いてみます。するとこのピンポン玉は、ボウリングの球に向かってコロコロと転がっていくでしょう。ボウリングの球の重さでシーツが沈んでいるからです。さらに、このシーツが透明だという風に想像してみてください。ボウリングの球が宙に浮いていて、そこにピンポン玉がゆっくりと近づいていく、という光景が浮かんだでしょうか。

はい、これこそが「重力」の正体というわけです。重い物質が空間を歪めると、物体はその歪みに沿って動きます。この時、「重力」という力が発生しているように”見える”とアインシュタインは考えたのです。

大きさが違いすぎてイメージしにくいと思いますが、地球とリンゴの関係も同じです。宇宙というでっかいシーツ(シーツは2次元で、宇宙は3次元なので、喩えとしては不正確です)の上に地球が乗っているので、その周辺のシーツ(空間)が歪みます。その歪みに沿ってリンゴが動いているので、地球とリンゴの間に「重力」が働いているように”見える”というわけです。

ニュートン理論では、「重力」は「謎の遠隔作用」でしかありませんでした。一方、アインシュタインの一般相対性理論では、「重力=空間の歪み」と明快に説明されます。これこそ、アインシュタイン以外の誰も気づかなかった大発見というわけです。

アインシュタインは息子から、「パパはなんでこんなに有名なの?」と聞かれた時に、カブトムシの話をしました。「大きなボールの上を、目が見えないカブトムシが這っているとしよう。カブトムシは自分がまっすぐ進んでいると思い、実は曲がっていることに気付かないだろう? でもパパは気付いてしまったのさ」(※25)と。まさにこれは、一般相対性理論の話をしているわけです。それにしてもアインシュタインは、短く分かりやすい説明をするのが上手いと感じます。

アインシュタインは、ニュートンがたどり着けなかった「重力」の正体を見抜きました。「ニュートンを超えた」と言っていいかもしれません。しかしアインシュタインはニュートンの墓参りに訪れた際、このように語っています。「私はあなたの理論の不完全さを見つけてしまいました。しかしそれでもあなたの偉大さは変わることがないでしょう。なぜならあなたは、あなたの時代にできる最大限のことをしたのですから」(※26)。

アインシュタインの業績が語られる際、「ニュートンは間違っていた」と言われることが多いのですが、それは決して正しい理解ではありません。実際のところ、「空間の歪み」はほんの僅かなので、重力が弱いところでは、ニュートン理論とアインシュタイン理論の結果は完全に一致します。また、今でも宇宙開発に使われているのはニュートン理論の方であって、アインシュタイン理論は必要ありません。アインシュタインが一般相対性理論を発表した時点で、この理論が適用可能だった現象は、唯一、「水星の近日点移動」だけだったのです。ホントに、よくもまあこんな理論を生み出したものだと感じます。

<一夜の大バズリと激アツ復活劇 編>で詳しく触れていますが、一般相対性理論は「日食の観測」によって正しいことが証明され(「水星の近日点移動」を説明しただけでは不十分で、別の検証も必要だったのです)、これがきっかけでアインシュタインは一躍有名人になります。しかし、当の一般相対性理論はと言うと、正しさが証明されたにも関わらず、しばらく無視され続けました。何故でしょうか。

理由は明快で、「いつ使ったらいいか分からないから」です。先程も書いた通り、当時一般相対性理論が当てはめられる現象はごく僅かしかありませんでした。一般相対性理論なんか無くても、科学の研究にはなんの支障も無かったわけです。理論自体は凄まじいし、正しさも証明されたけれど、「でも、使い途ないよね」という受け取り方が大多数でした。

相対性理論が無視されていた時代には、「相対性理論には手を出すな」と忠告を受けることが多かったそうです。「相対性理論に関わると就職出来ないぞ」というのも決まり文句でした。しかし「美しい理論」のため、科学を志す者は自然と惹かれてしまうようで、教授に隠れてこっそり勉強していたそうです。

実は一般相対性理論は、「ブラックホール」によってまた華麗な復活を遂げることになるのですが、それについては<ブラックホールってマジなんなん? 編>で触れることにしましょう。

ぶっ飛び天才揃い踏み

大物からの評価と量子論のプランク

アインシュタインはまったくの無名ながら、世界を一変させるような「特殊相対性理論」の論文を完成させます。しかし、当時アインシュタインは大学教授などではなく、特許局に勤める一介の役人に過ぎませんでした。そんなアインシュタインによる特殊相対性理論の論文を受け取った学術雑誌は、すぐさまそれを受理し、発表します。その時の編集者は後に、「これほどまでに非常識な論文を迅速に受理したことは、自分が科学になした最大の貢献だった」(※27)と語りました。確かにその通りでしょう。また、自身も科学者であるリサ・ランドールは、著作の中でこう書いています。「いまでこそ相対性理論は充分に検証され、それが生む効果を計算したうえで実用的な装置にも取り入れられているが、アインシュタインがこれを発表した当初に耳を傾けた人がいたというのは本当にすごいことだと思う」(※28)

そして、学術雑誌の編集者と同じく、無名だったアインシュタインの理論を真っ先に受け入れて評価したのが、プランクという科学者です。「相対性理論」という呼び方もプランクが考えました。もっとも、アインシュタインは「相対性理論」という命名を気に入っておらず、本当は「不変理論」みたいなニュアンスの名前の方が良かったと言っています。相対性理論のポイントは、「物理理論は立場によっては変わらない(不変である)」という点にあったからです。しかし「相対性理論」という名前が広く知れ渡ったこともあり、後から変えるというわけにはいきませんでした。

プランクがアインシュタインの研究に注目し、あまつさえ評価してくれたのは、大きな僥倖だったと言えます。というのも、特殊相対性理論を発表した当時、アインシュタインを待ち受けていたのは「氷のような冷たい沈黙」(※29)だったからです。アインシュタイン自身は、「この論文は注目されるだろう」と考えていました。ただし「称賛される」と思っていたわけではなく、「理論に対して鋭い反論や厳しい批判が出るだろう」と予想していたのです。

しかし実際には、反論や批判すら無く、完全なる沈黙、さざなみも立たないほどの静寂でした。アインシュタインは酷くがっかりしていたと、妹のマヤが老年になってから語っています。(※30)そんな状況の中、プランクからの評価が舞い込んできたのだから、喜びもひとしおだったでしょう。プランクは、相対性理論が科学界で受け入れられる前にこんな風に評価しています。「もしも(※相対性理論の)正しさが証明されるならば――私はそうなると考えていますが――彼は二十世紀のコペルニクスとなるでしょう」(※31)。

さらに幸運だったのは、プランクが当代随一の科学者の1人だったということです。「プランクが注目しているなら」という理由で、アインシュタインの論文を読んだ科学者もきっとたくさんいたことでしょう。もしプランクが真っ先に評価しなかったら、アインシュタインの理論の素晴らしさが広く知られるようになるのに、もっと時間が掛かったかもしれません。

では、プランク自身は一体何で有名なのでしょうか。それは「量子論」(「量子力学」とも表記します)です。「量子論」がどんなものかは<ヤバ量子論で天才2人がイカれ神バトル 編>で触れていますが、「20世紀の科学を牽引することとなった2大理論の1つ」でもあります(もう1つは「相対性理論」)。そしてプランクは、1900年に量子論の端緒を切り開く発見をし、「量子論の父」として科学史にその名を刻むことになった人物なのです。

ここで少し、プランクが大発見をした当時の科学界について書いておきたいと思います。

実は1800年代の終わり頃には、「科学はもう、重要なものを全部見つけたぞ!」という感覚が広く浸透していたようです。非常に著名な物理学者であるケルヴィン卿は、「今後、物理学で新たに発見されるものは何もない。あとは計測をより精密にしていくだけだ」(※32)と断言していますし、先程紹介した、エーテルが存在しないことを発見したマイケルソンも1894年の講演で、「自然科学の基本法則や基本事実のうちでもっとも重要なものはすべて、すでに発見されております。いずれもきわめて堅固に立証されているため、さらに新しい知見が付け加わる見込みはきわめて小さいのであります」(※33)と発言しています。どちらも、なかなかのビッグマウスですよね。

プランク自身も、学生時代の担当教授から、「物理学、とくに理論物理学では、細部を除いて重要な研究はすでに終わっているので、その道には進まないほうが良い」(※34)なんて忠告されたほどです。

しかし残念ながら、みんな間違っていました。そう忠告された当の本人が、あと1ヶ月で19世紀が終わるというタイミングで量子論を切り開く大発見をし、さらにその5年後、今度はアインシュタインがたった1人で、特殊相対性理論を打ち出したのです。

量子論にしても相対性理論にしても、それまで知られていた物理学とは根本的に異なるもので、特に量子論はその奇妙さから、多くの科学者が様々な嘆きの言葉を残しています。ある物理学者は、「何千人もの哲学者が何千年もかけて、考えうるかぎりの最も変わったものを探したとしても、量子力学ほど奇妙なものは見つからないだろう」(※35)と発言し、アインシュタイン自身も、「この理論のことを考えていると、すばらしく頭の良い偏執症患者が、支離滅裂な考えを寄せ集めて作った妄想体系のように思われる」(※36)と言っているほどです。アインシュタインは、「わたしは一般相対性理論について考えた時間より、百倍も多くの時間をかけて量子の問題について考えた」(※37)とも書いています。

そんな奇妙な量子論ですが、現代の我々の生活に不可欠な理論であることもまた間違いありません。なにせ、現代科学の様々な分野、たとえば統計力学、素粒子物理学、宇宙論、分子生物学、進化生物学などは、すべて量子論から派生したものと言っていいし、コンピュータ、DVDプレイヤー、デジタルカメラなど、私たちの生活に不可欠な製品の多くは、量子論が生まれなければ存在し得ないものだからです。

そんな、日常生活にも欠かせない量子論という分野の先陣を切った1人がプランクなのですが、プランク自身は「量子」という道へ踏み込んだ理由について、「やけっぱちだった」と語ったことがあります(※38)。解決しなければならない重要な問題と格闘する中で、「もう『量子』という発想でしか解決できないじゃん」と開き直ったというわけです。

プランクが導入した「量子」という考え方は、結果的には正しかったわけですが、当時は「なんのこっちゃさっぱり分からん」と思われていました。そして面白いことに、量子論のきっかけを作った「プランクの公式」を発表した際、その重要性を理解した数少ない人物の1人が、当時まだ役人だったアインシュタインその人なのです。ちなみに、アインシュタインのノーベル賞受賞理由に関係する「光量子」は「量子論」の話です(量子論については<ヤバ量子論で天才2人がイカれ神バトル 編>で、光量子については<全部ボロカスに批判されるやん 編>で書いています)。

このようにお互いの研究を理解し合ったと言っていい2人ですが、アインシュタインとプランクは歴史に翻弄され、引き離されてしまいます。プランクは、ドイツのプロイセン科学アカデミー(先述した通り、アインシュタインはこの会員になったことで自動的にドイツ国籍も得ることになり、「ドイツ国民」としてノーベル賞を受賞したのでした)の指導者でしたが、国内で反アインシュタイン運動が盛んになったことで、なんとアインシュタインをアカデミーから追放するという決断を迫られることになってしまうのです。しかし、プランクの悩みを当然察していたアインシュタインは、「プランクにそんな辛い仕事をさせるなら」と、自らアカデミーを辞すことに決めました。

プランクは89歳で亡くなりますが、その際アインシュタインはプランク夫人に、プランクと交わした対話は素晴らしく、彼と出会ったことは美しい思い出として留まり、それは悲劇的な運命が我々を引き離したという事実によっても変わりません、と伝える手紙を出しています。(※39)

さて、そんなプランクは、ドイツ科学界の重鎮だったこともあり、とても嫌な役回りを引き受けなければなりませんでした。ヒトラーの説得です。

ヒトラーがユダヤ人排除の政策を続けたことで、ドイツの大学は瀕死状態に陥り、研究も困難になっていきます。ユダヤ人教授が大学から解雇され、ユダヤ人の研究者が我先にとドイツを逃げ出そうとしていたからです。そんな窮状を訴えるべく、プランクはヒトラーに面会します。

プランクは楽観的に考えていて、「ちゃんと訴えればヒトラーも分かってくれるはず」と思っていたようです。しかし、目論見はまったく外れてしまいました。ヒトラーは、当時75歳と老齢だったプランクに激昂し、一説によれば、「強制収容所にぶち込むぞ」と脅したとか。ヒトラーは、「たとえ科学者のためであろうと、われわれの国家政策が取り消されたり、修正されたりすることはない。ユダヤ人科学者を免職すれば現代ドイツ科学が消滅するというなら、二、三年ぐらい、科学なしにやってやろうではないか!」(※40)と、ムチャクチャなことを言ったようです。科学研究が進まなければ戦争にも支障が出るだろうに、よっぽど嫌いだったんですね、ユダヤ人のことが。

1933年までに、物理学会会員の約4分の1、理論物理学者のおよそ半数が亡命に追い込まれました。1936年までに職を追われた科学者は500人近くに上り、その中で、ノーベル賞を既に受賞しているか、後に受賞する者が20名もいたそうです。結果的にはドイツにとって大損でしかなかったでしょう。

先述した、別荘の家宅捜索や没収も、当然ヒトラーの政策が関係しています。アインシュタインも、当初はヒトラーのことを「一過性の病」のように楽観視していたようですが、次第に、「こりゃあマズイぞ」と思うようになったのでしょう。アメリカ旅行中に友人に宛てた手紙の中で、「ヒトラーのことを考えれば、わたしはあえてドイツの土を踏もうとは思いません」(※41)と書いています。そしてまさにその日、ベルリンの国会議事堂が放火され炎上したのです。アインシュタインは最終的にアメリカに亡命しますが、その前にインタビューを受け、「わたしに選択の余地があるかぎりにおいて、市民的自由と平等が行われている国にしか住むつもりはありません。市民的自由とは、自分の政治的信念を表明する自由と、言論および著作の自由を意味します。寛容とは、いかなる他人の信念に対しても、それを尊重することです。これらの条件は、今のドイツでは満たされていません」(※42)と語っています。

さて、プランク自身はヒトラーから激昂された程度で済みましたが、彼の息子はそうはいきませんでした。ナチスが権力を奪うまで、首相官邸の国務次官の地位にいた末の息子エルヴィンは、なんとヒトラー暗殺の容疑者として逮捕、拷問されてしまいます。その後、暗殺計画の共謀者として有罪となり、死刑を宣告されたのですが、プランクはなんとか禁固刑に変えてもらおうと奔走します。そして、僅かながらその可能性が見えたと思えた頃、なんの前触れもなくエルヴィンは絞首刑に処せられてしまいました。最後にひと目、息子に会うことも許されなかったそうです。なんとも酷い話でしょう。

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