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情報をとりに行くということ

*特に若い世代の人に読んでもらえたら嬉しいです。
 
私は 当時いくつかあった『電車で通えるアメリカの大学』の一つである
アメリカの州立大学の日本校に通っていたのだけど、News writingの講義を取ったとき、最初の授業で、そのアメリカ人の教授が言った言葉を、今でも憶えている。
 
「たとえば
『10名の死者が出た事故』の記事を書くとき、
ニュースはただ、その事実だけを書かなくてはならない。

その記事に
『10名もの多くの犠牲者を出した事故』の
『多く』など、
感情や 感想を誘導する文字は入れてはならない。

多いか少ないかを判断するのは読む側の個々人であって、それを報道するジャーナリストではない」
 
そうなのかー と思って
その日の夕方、帰宅してさっそく、家にある新聞を先生の教えの視点から読んでみたら、折しも事故、事件の記事があり、その文章のなかには思いっきり「多くの」「悲惨な」などの文字が並んでいた…
 
その頃はまだ『正しい日本語』、『正しいジャーナリズム』の最後の砦として頑張ってる印象だったNHKの報道でも、そういった煽情的せんじょうてきな言葉は日々のニュースの中で普通に使っていたから、
 

日本のジャーナリズムって、ダメなんじゃん…
 

と 文字どおり orz のポーズになってしまい、
悲しくも残念に思った10代の秋。
(当時の私の「新聞を読む時のポーズ」がほぼソレだったのもありますが)
 
その頃、とあるノンフィクション作家の講演会だか何だかに行く機会があって、そのとき、その作家さんが「新聞はベタ記事を読め」という発言をされていたのも、妙に記憶に残ってる。
 
隅っこのほうに載ってる小さな記事を毎日注意して見ていると、事件の過程がよく追えるよ、といった内容。

数日前にベタ記事で登場した小さな事件が、日を追うごとに大きくなって行き、メイン記事に「育ったり」することもあれば、

別々の小さな記事が、調べていくと、一つの事柄に関連していたりするとか。
 
その頃はまだインターネットがなかったから、一般の人は、情報は、活字で印刷され、配信されるものからしか得ることが出来なかった。

そのなかでせめて、視点のバランスをとるためには、
新聞でも、ひとつだけじゃなく、2~3紙平行して目を通すべきとも言われていた。
それは今も同じだけど。
 
何事もそうだけど、
とくに社会全般や世界情勢に目を向けるとき、そういった小さなベタ記事をおろそかにしないように、という話で、まだ10代の私にとってはその指摘は、とても勉強になった。
 

自分から情報を取りに(獲りに)行く。
そのことは、とても大切だと思う。
 

一つの報道で与えられる内容をそのまま鵜呑うのみにせず、別の視点の報道を探しに行く。

そのあと自分の頭で考えて、その事件や出来事がどういうものなのか? ということを、自分なりに解釈する。
 
「そんな時間ないよ…」
たいていはそうだ。

でも大切なのは、実際に、文字通りにそれを実践することよりも、
『そういう心づもり』 
『そういう視点』を、
常に自分の中に置いておくことのほうだと思う。
 

なんとなく引っかかった件だけをそうやって追ってもいいし、べつに追わなくてもいい。

ただ、一つのことに対して、誰かが書いた記事を読んだだけで、
「わかった、終了」
と『思い込まない頭』を持つこと。
 

今の日本社会で、日本人が一般的に<情報>をどう扱っているか、改めて考えてみて。
そして、その社会の傾向と、自分自身の情報への態度を、比較してみて。
その自覚する、自分の情報への姿勢はどんなものか、これまでどう考えていたかも。
 
そういうのって、判断力を鍛えるため
=総合的なサバイバル能力を高めるため
の、身近で出来る訓練だと思うよ。
 
脳みそを今よりももっと、使う習慣を身につけよう。

世の中の出来事で、正解や真実が「これ一つしかない」なんてことは、実は殆どない。
立脚点が変われば、そこから見えるものは、それぞれ違うものになるから。

どこかの誰かに足元をすくわれず、自分の足でそこにしっかりと立つためにも、
自分の知見を広めて
自分の頭で考えて
判断力を 自分の内に育てていこう。
 
正解とか指標がないことは、日本の学校教育で育った私たちにとっては、不安で、難しく感じることではあるけど
 
人間の判断能力って、そういう正解の判らない状況のなかで、疑問や不安と闘いながら、孤独に養っていくものなんだよ。 
 
『自分で自分を育てていく』って、そういうことなの。
だから他の人たちと意見を交換し合うことも大切になる。
新しい、別の視点を手に入れるためにね。
 
若い人たちは特に 視野を広げて欲しい。

なにごとも、自分の頭で「も」判断するようにしてみて。
常にそれを検証し、意見や判断を改善して、日々、より良いものに変えていく。
 
自分の最初の意見や判断に固執こしつする必要はない。
むしろそんなこと、しちゃいけない。
最初に持ってた情報と、今持ってる情報は違う。
判断だって、意見だって、それによって変わって来る。
 
一度口にした意見を引っ込めたくない、という理由だけで、屁理屈へりくつを口にせざるを得ない状況におちいることのほうを怖れるべき。
自ら「見苦しい人たち」になりに行くことはない。
(そういう人って本当に多いけど)
 
どんどん新しい情報を取り入れて、どんどん考察のベクトルを変えたり、深めたりしてみて。
イタリアの格言で言うらしいよ、
『たった一冊の本しか読まない者を警戒せよ』
 
もし「おまえ、この前はああ言ってたじゃないか」と
あなたを揶揄やゆする人がいたら、
「おまえは古い情報のままの世界に生きてるのか?」
と聞けば良い。
 
自分の意見を持つことを怖れないで。

それが不動のものになるまでには、考えや判断が流動的になる時期を経る必要があることも、それが普通で自然なことだっていうことも、覚えておいて。
 
物証が明確な物理や科学の世界ですら、今現在の<真実>は、新しい発見や実験結果で、随時ずいじ更新され、変化していく。
 
自分を常にアップデートし続けることで 逆に揺るぎない確信と出会うことも、人生にはある。
それを見分けられる能力がついてくるということ。
筋肉がきたえ上げられるように。
 

大人たちの言うことを、ただ鵜呑うのみにしないで。
人間であるかぎり、誰にだって間違いはあるから。
 

でもま、私もそのオトナの一人なんだけどね。
 

さて 
 

とりあえずみなさん、こういったひとつの意見も踏まえてもらったうえで
 
もし選挙権を持っているなら、日曜日の選挙は、忘れずに行っときましょうか?
 
事前に、候補者の考えや、どういう人物なのかを調べたうえで、
社会のなかで『自分の意見』を、表明しに。
 
 


書いたものに対するみなさまからの評価として、謹んで拝受致します。 わりと真面目に日々の食事とワイン代・・・ 美味しいワイン、どうもありがとうございます♡