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「かたち」にのこらない愛のかたち

 朝から並んで、『渋皮栗のコーヒークリームチーズパイ』と、『練乳ラムレーズンクリームといちじくジャムのビクトリアケーキ』を手に入れて幸せな土曜日の朝です。
 濃いコーヒーの香りがするクリームチーズパイに、ゴロンと入った渋皮栗。
 大好きな練乳クリームが、今回はラムレーズン。
 幸せのお菓子を、銀のフォークで掬います。


 銀のカトラリーは舌触りがいいので、アンティークを含めて少しずつつ買い足したり、子どもたちが生まれた時にいただいた銀の匙も大事に使っています。
 口に入れて、ふはーっ!と上を向くお行儀の悪さですが、味わえるこの一瞬を大事にしたいと思います。
 消えてしまうからこそ、愛を感じる。
 人として生まれた限りは、永遠なんてないからね、と。

 


 そういう意味で、美しい盛り付けのお料理を見て感動したり、味わって泣きそうになったり、『かたちにのこらない美の世界』ってすごいと思います。
 そこには、作った先の人の感動を想像できる『愛』があるから。
 
 お弁当もその一つ。
 父が他界するまで主婦をしていた母は、綺麗なお弁当を作って持たせてくれたものでした。
 「なんで、綺麗なお弁当を作ってくれるの?」
と、一度質問したことがありました。
 「おばあちゃんがそうしてくれて、嬉しかったから。これだけは子どもにしてあげたいと思って。」
 もう、天国にいる母ですが、たまに思い出します。

 高校生の時、お弁当の時間に私の周りは、いつも賑やかになりました。
 「今日のお弁当は何?」
 そして、ちょっとちょうだい!と次々に味見。
 それを話すと、母は仲良しの友達に分けられるように、デザートに苺と生クリームをクレープで包んだものを持たせてくれたり、大きな容器にラザニアを入れてくれたりしたものでした。

 子どもの運動会の時、先生と食べる子の姿を見かけて、胸が痛くなったことも思い出します。
 私は、母の料理で生きているともいえるわけで、それが当たり前でないことを突きつけられる場面には、今の仕事でも出会います。

 「一度だけ、母が運動会にお弁当を作ってくれたんです・・・。」

 ある女性のこの言葉が刺さって、なかなか抜けませんでした。
 団欒のない家はたくさんあり、温かさを知らない若い女性にもたくさん会います。
 当たり前のようにある毎日の食卓が、ある日突然、奪われるようなことが世界で起きているし、いや、その前に食卓が当たり前にないところもある。

 かたちには残らないけれど温かさを思い出せるのは、日常の些細とも思えるようなこと。
「積み重ねこそが人生〜。愛だよ、愛。」
と呪文のように言いながら、早起きしてお弁当を作ります。
 味覚や触覚や視覚や・・・五感で思い出せる幸せのかたち。

 「かたち」にのこらない愛の形も、残していけるといいなと思います。


 シュトレンも買いました。 
 レーズン、いちじく、りんご、ゆず、マロングラッセ、アーモンド入り。
 味の変化を楽しみながら、毎日少しずついただきます。
 

 

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