見出し画像

『あの夏の君へ』


夏って、ほんとうは人生に一度しかないんじゃないかと、そう思わざるを得ないくらい皮膚に色濃く残っている夏がある。


『花火しようよ』


携帯電話が受け取った短いメールで、僕は彼女の家まで車を走らせていた。

18時を過ぎてもなおしぶとく残っている日差しがフロントガラスに張り付いている。眉間にくっきりとした縦皺ができるほど目を細めながら、ラジオから流れ始めたフジファブリックの「若者のすべて」に耳を傾けた。何年経っても思いだしてしまうような記憶がこれといってない僕には、志村正彦の心地よい声がやけに陽気に聴こえて、車の隙間から漏れ出しそうなほどの声を重ねてみる。


浮かれていた。

彼女と付き合っているわけではなかったし、夏のせいにするような出来事があったわけでもない。でも、こうして何度か気まぐれな誘いを受け取るたび、いつしか心踊っている僕がいた。


134号線から抜けて、看板の文字が消えかけた定食屋を左折すると、二つ目の角にえんじ色の一軒家が見える。車内は空調が整っているのに、ハンドルを握る手だけがじんわりと汗ばんでいた。

そこから少し先にあるセブンイレブンに車を止めて、助手席の荷物を移動したりミラーで髪を整えたりしてから、『着いた』とメールを送る。


『あと2分待って』

『了解』

『やっぱり5分』

『ゆっくりでいいよ』


そんなやりとりをしながら、彼女の家の前まで歩いて向かう。結局、10分を過ぎたあたりで、ガラガラと音を立てながら玄関の引き戸が開いた。

離れたところから見ても得意そうな顔をしていた彼女は、やはり満面の笑みを浮かべてこちらへと近づき、僕の目の前に来るやいなや「じゃーん」と言ってくるりと回る。

彼女は、長い黒髪をお団子に結って、薄紫色の浴衣を纏っていた。


「今、なんで浴衣着てるの、って思ったでしょ」


思わず固まってしまった僕の顔を、彼女が覗き込む。うっすらとピンクに色づいた頬と唇が目に止まり、さらに動けなくなってしまった。少しの沈黙の後、やっとのことで口をついた言葉は「うん」という白々しくて退屈なものだった。


「買ったばっかりの浴衣、はやく着たくなっちゃって」


可愛い、似合ってる、綺麗だ。今の彼女に相応しい言葉なんていくらでもあった。なのに、「いいじゃん」としか言えない自分の意気地なさが恨めしい。

それから車に乗って由比ヶ浜に着くまで、何を話していたのかは正直思い出せない。ただずっと、左半身だけ発熱しているような感覚があったことはよく覚えている。


海岸沿いのパーキングに駐車して車を降りると、磯の香りが鼻をくすめた。太陽は西の空に溶けきって、あちらこちらに伸びていた黒い影は目を凝らさないと分からないほど淡くなっている。

あらかじめドンキホーテで買っておいた花火のセットを片手に、防波堤へと向かった。砂浜では大学生らしき集団がきゃあきゃあと花火をしている。ぴゅうっと甲高い音がしてそちらを見ると、赤色の花火が打ち上がって海に散っていった。


彼らの声と波の音をBGMに、僕らもふたり、それぞれの花火に火を付ける。両手に花火を持って空に絵を描いたり、どちらが上手く写真を撮れるか競ったりしていると、あっという間に時間が経っていた。

年甲斐もなくひとしきりはしゃいでから、「あとはこれだけ」と、彼女が線香花火を取り出す。気づくと周りには、僕ら以外だれも居なくなっていた。

ライターの火を左手で囲みながら、風を避けるようにして横並びに屈む。じんわりと線香花火に移った炎は、静かに、やがてぱちりぱちりと音を立てて弾けていく。

ゆっくりと膨れる蕾からふと視線を上げると、吐息がかかってしまいそうなほど近くに彼女の横顔があった。僕の視線に気づいてか、彼女もこちらを見る。


「好きだ」


僕は、思わず言葉にしていた。あまりにも綺麗な彼女に。


「やっと言ってくれたね」


そう言って彼女は笑った。その瞬間に僕の火玉がぽとりと落ちて、彼女はまた笑った。つられて僕も笑った。もうひとつの線香花火はなおも煌めいている。

これが、何年経っても思い出してしまうような、最初で最後の花火の記憶となった。






こんなにも鮮明にあの夏をたどってしまったのは、耳の外から聞こえてくる花火のせいかもしれない。

過ぎてしまった時間とはうらはらに消えてくれない記憶は、今日になっても心の奥のほうでひりひりと痛む。いくぶん優しくなった日差しに背中を押されて、足はたしかに駅へと進んでいるけれど、頭はあの夏の日へとつま先を向けていた。

僕はイヤホンに手を伸ばし、音量の+ボタンを3回押す。けれど、たかだか花火の音を遮断したところで、巻き戻ってしまった脳みその中のフィルムは断ち切れなかった。


思い出すのは、やっぱりつらい。ふたりでいた日々はもう永遠にやってこないから、彼女を幸せにできるのが僕じゃないと思い知らされるから、つらい。


でも、いちばんつらいのは、彼女の記憶がだんだんに脱色されていると気づいてしまうから。


思い出すということは、忘れていたということ。


たかだか花火の音くらいで今でも思い出してしまうくらいに好きだったけれど、今はもう思い出すくらいにしか残っていない。

彼女を1ミリたりとも忘れまいと、過去のふたりにしがみついていたはずの僕は、いつのまにか彼女がいない日常を生きることができていた。ひとりの車も、見えない花火も、鳴らない携帯も。

夏至の夜のような恋から覚めると、ほんとうに夢だったのかと思ってしまうほど、平坦で陳腐な僕ひとりの毎日が続いていた。

なんだか、時間というのは恐ろしくも優しいとつくづく感じる。



イヤホンからは、RADWINPSが「誰か」に向けて作ったのであろうラブソングが流れている。というか、どんな有名な曲もほとんどが、誰かのために作られているんだろう。そう思うと、自分でも不思議だが、羨ましくてたまらなかった。それってすごく幸せなことだ。

足を引きずりながら歩いては時折振り返って、またのろのろと歩くことしかできない僕とは違って、忘れられない恋とか苦しかった想いのすべてを歌にしてしまえるなんて。それも、その誰かに届くような歌に。

スーパースターでもない僕がこんなところで気持ちを言葉にしたって、彼女が耳にすることも目にすることも絶対に、ない。


だけど、ほんとうに大好きだった。一生に一度の恋だったと、恥ずかしげもなく言えるほどに。大好きだったから。

あの夏の気持ちも、色も匂いも肌触りもぜんぶ、鮮やかに色づいたままのあの夏の僕らを残しておきたい。ちゃんと忘れないでいたい。何度、夏が巡ってきたとしても。


君に届けるためじゃなくて、僕が生きていくために。



「あの夏の君へ」

もう君のいない毎日が 僕の日常になったよ

どうせ君には届かないから 僕のために歌う 

君への歌

まだ覚えてるよ 薄紫の浴衣と横顔

線香花火より先にぽとりと落ちたのは恋だった

何も変わらない世界で 僕の世界が変わったよ

せっかく結んだ手と手だからほどけないように いつまでも、ってさ

あのふたり過ごした毎日を

まだ日常と呼んでたかった

「愛してる」ってくらいのラブソングを

歌えるような男だったらな


無数に煌めく砂浜で 時を終えた砂時計

本当のさよならだから さよならは言わなかったんだね

「明けない夜はないよ」と色褪せてく星に

「明けたくない夜だってあるよ」と淡くも縋っていた

短い夜の輝き 今日も綺麗に残って

君と恋をして幸せだったと歌える僕になったよ


君のいない毎日は 

日常にしては味気ないけど

あの花火はもう消えたってこと

五月蠅いほど分かってるからさ


もう君のいない毎日が

僕の日常になったよ

もし君の毎日には誰かがいても

幸せでいるならそれでいいよ

ありがとうを あの夏の君へ

愛してた あの夏の君へ








最後まで読んでいただきありがとうございます。 スキをいただけたら嬉しいです。ツイッターで感想を教えてくれたらもっと嬉しいです。でも、私の言葉が少しでもその心に触ることができていたら一番嬉しいです。 サポートでいただいたもので、とびっきりのご褒美をあげたいと思っています。