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人生の目的と行動の一致を考える話
LRですすすす。
5か月ぐらいnote書いてなかったのですが書きたい気持ちになったので書いてみようと思います。
最近はと言えば、
無意識がキャパオーバー
していて、なんでこう、考えることがこんなにもたくさんあるんだと頭が混乱しています。
人間には意識と無意識があるというのは使い古された話ですが、起きている間は何かをずっと考えているし、無意識下でもゴミがいっぱいのようで、どうも心の余裕というものがありません。
こういう時はあくせく答え探しをせず、3日間ぐらい寝続けて自然消化に任せるに限るのですが、それもあまり上手くいかないようです。
なぜ無意識がキャパオーバーしているのか、正確には分からないのですが、おそらく
人生の目的(使命)と現在の行動が一致していない
から起こっているような感じはします。
今僕は双極症(双極性障害・躁うつ病)の療養中なので頑張って行動する必要とかない気もするのですが、一方でそろそろ社会復帰について考え始めるタイミングでもあるので「じゃあ具体的にどういう形で社会復帰しようか」と考えることもしばしばあります。
それは例えば、就労移行支援サービスを利用しつつ動画編集を学んで動画編集者になろうとか、前職であるコピーライターに戻ろうとか、ITの近隣ジャンルであるWebデザイナーになろうとか、そういう話です。
でもそのどれもが、僕の人生の目的(使命)とは何の関係もない感じもします。
今までいろんなことを経験してきました。
精神的虐待もあったし、中学受験は頑張ったし、大学で一応心理学を学んだし。音楽活動はしたし、コピーライターもしたし。
出会いと別れ、同棲の失敗、無職も病気もあれば飛び降りも手術入院もありました。4年ごとぐらいで生き方が変わってる気もします。
それで、なんかあれこれ経験してきて改めて子供時代のことを振り返ってみると、
「真理が観たい」
この一点のみに突き動かされてたなあと思います。
言い換えると「生きる意味が欲しい」「生きる意味を感じたい」「真理を追い求めたい」みたいな。
僕が音楽活動をしていたのも『真理探究のための無意識的アプローチ』そのツールとして音楽を選んだという面があって、音楽が先ではなく真理探究が先でした。
そう考えるとやっぱり僕の人生の目的は『真理探究』にあって、仮に真理なんてものが名だたる哲学者たちに否定されていたとしても、それを追い求めずにはいられない性分なんだと思います。
その視点で見た時に、
現在の行動は『真理探究』と一致しているか?
と考えると、とてもそうは思えません。
今やっていることと言えば、
・病気の療養
・今後の仕事について考える
・ゲームなどの配信活動
とかで、それはそれで心が休まったり元気になったり色んな出会いがあるけれど「なんかそっちじゃないんだよなー」感がとても強いんです。
もっと刺激的で、身を投げ打ってもいいようなスリルがあって、それだけの価値と使命を感じる世界が絶対にあると思う。でも今、そこにはいないんですね。
成功も失敗も無駄そうなことも含めていろいろやってきたし、次の人生の選択は、残りの一生をすべて捧げられるものにしたくって。
その大きな方向性が『真理探究』なわけだけど「じゃあ具体的にどういう行動を取るか」という点で難しいというか、現在地からはちょっと離れちゃってるなあとは思います。
真理探究のための具体的な行動
って一体なんでしょう?
真理って実は、その辺に転がっていたりするのです。
公園のベンチに座って佇むだけでも何かの存在を感じるし、土をこねていても、人同士の小さなコミュニケーションの隙間にも、何らかの『確かそうなもの』を見つけることが出来ます。
だから特別「真理探究のためにはこれをしなさい」という行動は無くて、どんな人生を歩んでいても、真理を見出すことは出来ます。
一般的には『哲学書を読む』『議論する』『先生について学ぶ』とか言われるかもしれないけど、それらは必ずしも必要な行動ではなくて。
必要な唯一の行動は
思索すること
だけだと僕は思っています。
目の前の出来事に対して、深く深く思索して『裏側に流れている何か』を見出すこと。リンゴが落ちたら引力見つけた的なアレの深いバージョンです。
その思索を本に書けば作家になるだろうし、何かの思想に乗っけて論文にすれば哲学者になるだろうし、Youtubeで発信すればYoutuberになるだろうし。
ただそれらは付随した結果であって、根本にあるのは『思索すること』ただ一つなんですね。
じゃあ、今後の生き方を見定める上で僕が考えなきゃいけないことは、
「思索した結果、どうするか」
だと思うんです。
人生の目的という点で言えば、思索の結果『どんな思想にまとめるか』だし、行動の点で言えば『どうまとめ発信するか』なのかなって。
例えば『どんな思想にまとめるか』だったら、宗教色の強いものなのか、政治色の強いものなのか、生き方にフォーカスしたものなのかとか。
誰のため何のための思想なのか、とも言い換えられるかもしれません。
『どうまとめ発信するか』だったら、本を書くのか、学問の道に入って学者を目指すのか、Youtubeとかで発信していくのかみたいな。
ただ、人間の生き方=社会的活動なのだとしたら、やっぱりある程度は社会と接点を持ったものにしなければなりません。
社会との接点とは具体的には『過去の遺産を活かすこと』であって、それは例えば過去の思想書をたくさん読んで、それらの体系の上に成り立っているものに仕上げるみたいな話です。
もちろん何の体系もない世界に何かをぶち上げることを目指すのも面白いのかもしれないけど、そもそも何の体系もない世界を見つけるのも大変だし、キリストやブッダがいる時点ですでに無理な気がします。
(生きる≒食うということを完全に捨てて発狂すれば可能かもだけど)
そう考えれば、今の僕に必要なのはやっぱり一度過去の体系をある程度学び直すことであって、(自ら思索し続けることは大前提として)思想書の読書がひとつの近道なのかなあと思いました。
たぶん読んでいくうちに、書きたいこととか、どう発信していこうとかも自然と欲求が出てくるのだろうし。
それがどう具体的に、肉体を維持することに繋がっていくのかは分からないけれど、そこはあまり作戦とか考えずに自然に任せた方がいい気もします。
とにかく『人生の目的=真理探究』と全ての行動を一致させること。
そこに集中するのが、今後一番大切なことなんじゃないかなと思いました。
そのために、今やっている活動を辞めてしまうのか、軌道修正して活用していくのかとかも考えなきゃいけません。
(LRはのんびり続けられるだろうけど、ゲーム配信とかどうしよう、趣味としては置いておけるけど……って感じです)
ただ、方向転換しようとする時に全部捨てようとしちゃう悪いクセがあるので、今すぐ白黒ハッキリさせすぎず、まったり見極めていけたらいいなと思っています。
ということで長くなっちゃったけど、最後までお読みいただきありがとうございます。
LRでした、またねー!
いつも応援ありがとうございます!