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救急隊員から専業ライター兼編集者へ 濵崎侃さんの旅路

幼い頃から救急救命士に憧れていた濵崎侃はまさき なおさんは、猛勉強の末に夢を叶えた。救急隊員として着実に実力を付け働き甲斐を感じていたが、入社から約4年半後、濵崎さんは周囲の反対を押し切って退職を決断する。その後、未経験で専業ライターの世界に足を踏み入れた。
持ち前の行動力と感謝の気持ちを糧に、彼はライターとして着実に歩みを進めている。濵崎さんの想いと、今日に至るまでのストーリーを追った。

救急救命士を目指して

「ナオ、消防士になったら毎日運動しながら、それが仕事になるんだよ。人のお役にも立てるよ。ナオは絶対消防士になるのが良いと思うんだよね」

濵崎さんがまだ幼い頃から、消防署の前を通るたびに母親はそう話したという。

「僕は人を喜ばせることと、体を動かすことが大好きだったんです。母はそんな僕に消防士になってもらいたかったみたいです。その後、僕は母が描いた未来に向かって歩み始めることになります」

救急救命士(以下、救命士)になりたいと思った理由はそれだけではない。

「僕は本当に周りの方々に恵まれて育ちました。家族や親戚、友人、地元の皆さま。だから、お世話になった方々に恩返しをしたかった。大切な人が病気やケガをしたときに、助けに行きたいっていう思いが根底にあったんです。分かりやすい表現をすると『ヒーロー』になりたかった」

濵崎さん4

大好きだという開聞岳ー濵崎さんは山の麓で中学時代までを過ごした

しかし将来の進路を決める高校3年の夏、濵崎さんは突然、辛い現実と向き合うことになる。

「公務員試験に落ちてしまったんです。他にもショックな出来事がいくつも重なって、抑うつの症状に襲われました。今の僕しか知らない人には驚かれるのですが、もともとひどいマイナス思考だったんですよね。死んだ方が楽かもしれないと、何度も思いました。夜が来るのが怖かったです。今思えばあのときの経験があったから、こうして強くなれたと思うんですけど」

濵崎さんは救命士になる夢を捨てきれず、抑うつ状態のまま大学受験にむけて必死に努力した。しかし母親は大学進学には反対だったという。

「僕の家は母子家庭なので、母親に負担をかける訳にはいかなかったんです。母親から、『高校を卒業したら、すぐに就職して欲しい。それが私の願いです』とメールが届き、なんとも言えない気持ちになりました」

それでも彼の決心は揺るがなかった。

「ここで諦めたら後悔すると思ったので、『仕送りは一切いらない。学費や生活費は、バイト代と奨学金でなんとかする』と一方的に伝えました。いま思えば、いつも最後は僕の意見を尊重してくれる母親に、感謝しなきゃいけませんね」

翌春、濵崎さんは救命士の養成課程がある国士舘大学に進学した。夢に向かって挑戦を続けていると、次第にうつ症状も消えていったという。

「大学時代、母との約束を守るために、スーパーでバイトをしながら勉学に励みました。ときには睡眠時間を削り、遊びはほとんどせず、とにかく勉強とバイトばかりしていました。学年に約170人いる中で、成績トップ10に入り続けることを目標に頑張っていましたね」

人生の宝物

卒業後、公務員試験に向けて勉強していた濵崎さんは、国士館大学時代の同期からある会社に誘われる。その企業の代表取締役は、国士館の大学院で助手として勤務していた方で、濵崎さんも学生時代にお世話になった人だった。

「国内には財政難などの理由で、消防本部を設置できない市町村があります。紹介された会社は、消防署等がない自治体から救命救急搬送の任務を請け負う、日本初の民間企業でした。国内初のチャレンジをしている企業と知って、『これはおもしろい』と興味が湧いたんです。詳しい話を聞いて、救急救命士としての実力を伸ばすなら、ここで働くのがベストだと思いました。将来どうしても地元の鹿児島に帰りたかったら、また公務員試験を受けようと考えて、まずはその企業に就職を決めたんです」

翌年、濵崎さんは本社のある宮崎県東臼杵郡美郷町 ひがしうすきぐんみさとちょうで、念願の救急隊員として働き始める。日々、人の命と向き合うなかで、彼はこんな気持ちを抱いたという。

「救急の現場は、昨日まで元気だった人が今日亡くなる、ということが普通にある世界です。それを経験したから、生きているだけ、自分の夢に挑戦できるだけで幸せだ、という思いが僕のベースになりました。おそらく普通の人は、なかなか僕と同じ温度では体感できないと思います」

濵崎さん3

美郷町西郷地区・救急救命業務開始日

心身ともにハードな仕事と向き合う濵崎さんにとって、美郷町の人たちとの交流は大きな楽しみだった。

「美郷町は第2の故郷だと思っています。プライベートでも、町の人たちには本当にかわいがってもらいました。会うたびに『ハマちゃん、いつもありがとう』『またバレーボール来てね』『今度飲みに行こう』と声をかけてくださるんです。毎日どんなに辛くても、この人たちのために頑張ろうって思えました。20代でこうした経験ができたことは、僕の人生における宝物です」

描いた未来へつながらない道

上司や同僚、町の人たちからの信頼が厚かった彼は、入社から2年10ヵ月後、26歳で会社史上最年少の課長に昇格する。翌年、将来を嘱望された濵崎さんは「大きな現場で勉強してきてほしい」と、社長から宮崎市にある大学病院への出向を告げられた。

しかし大学病院でドクターカースタッフとして勤務していたとき、自分の考えていた未来が、今の仕事の延長線上にはないことに気付いてしまう。その大きなきっかけとなったのが、2020年9月に九州を襲った大型台風だった。

「あの台風被害で宮崎県でも3、4人の方が亡くなりました。僕は大学病院で災害派遣の医療スタッフとして待機していたんです。ただ、鹿児島でも叔母の家が一部被害を受けてしまって。僕は濵崎家の長男で、親戚の中で力になれる男は僕しかいませんでした。家族からも『帰って来れないの?』と聞かれましたが、災害現場で助けを求める方々がいるかもしれないので、地元に帰るわけにはいきませんでした」

この頃、濵崎さんは救命士になりたかった気持ちの「原点」を思い出したという。それは大切な家族や、幼い頃育ててくれた地元の方々に万一のことがあったとき、いの一番に駆け付けて助けたい、という思いだった。

濵崎さん2

第23回 日本救急医学会九州地方会の会場にて

また、新型コロナウイルスの感染拡大も、濵崎さんの気持ちに影を落とした。

「コロナの時期、医療従事者には移動制限があって隣県の鹿児島にも帰れない状況でした。そのときに『今は自分がやりたかった仕事をして充実しているけれど、一生これが続いたときに後悔するんじゃないか』と考えたんです」

ジレンマを抱えるようになり、思い悩む日々が続く。

「家族よりも大切なものってあるのだろうかと悩みました。目の前で助けを求める人がいれば、当然全力を尽くします。一方で、自分の心が満たされていないことにも気付いたんです」

濵崎さんの心は、次第に揺れ動く。いつでも家族やお世話になった方々の元に帰れる仕事をしたい、と思った彼が出した結論は、フリーランスとして働くことだった。しかし退職への不安と、期待してくれた上司や同僚、美郷町の人たちを裏切ってしまうという思いが、濵崎さんを追い詰めていく。

「仕事から戻り、自宅でシャワーを浴びながら未来を想像して吐きそうでした。今の仕事を辞めたら、俺収入ゼロじゃん、どうやって生きていくんだろうって。会社や美郷町の人たちにも申し訳なくて、合わせる顔がないと思いました」

命の恩人に導かれて

そんな折、濵崎さんはとある女性の言葉に救われる。

「彼女はメンタルマネジメントというか、良い考え方をたくさん教えてくれたんです。最初は『あなただからそう思えるんだ、僕はあなたとは違う』と感じていました。でも話を聴くうちに、彼女の考え方を僕も身に付けたいと思い始めたんです」

女性の話の中で、今でも大切にしている言葉が2つあるという。

「1つは『感謝の想いをベースにする』こと。これは僕の性格とも合っているんです。僕は昔から『人の役に立ちたい』という感情がエネルギー源。だから、その気持ちがあるといくらでも頑張れるんです。誰かからご恩をいただいたなら、自分もできる限り恩返ししたい。そういう気持ちが原動力です」

濵崎さん5

人が好きという濵崎さん(保育園時代からの友人と)

「もう1つは『未来を見る』という言葉。『未来のワクワクをイメージしなさい。失敗した過去や、うまくいかなかった記憶よりも未来のワクワクが上回ったら、普段の心の状態も明るくなるよ』と教えてくれたんです」

濵崎さんは彼女の言葉をメモに残し、仕事の休憩中やトイレの中、夜寝る前など、毎日狂ったようにそのメモを見ていたという。そして3ヵ月が経つ頃、濵崎さんの心に変化が訪れた。

「過去の自分とはまったく違う人間になリました。もう、別人です! 友人や知人には『もともとナオって誰よりも明るかったよ』って、信じてもらえないんですけど。それでようやく未来に向けて決心できました。会社を辞めると周囲に伝え、この頃には以前の不安もすっかり消え、未来に対するワクワクでいっぱいでした。ですから、彼女には感謝してもしきれないんです」

濵崎さんはいつでもそのメモを見られるように、今もパソコンの隣に置いているという。

未経験から専業ライター兼編集者へ

濵崎さんは退職後にどの仕事を始めるか、幅広く考えたという。フリーランスとして活躍する人たちや、起業家のSNSを数多くフォローし、動画講座を視聴して情報を集めた。

「未来につながる仕事は何だろうと考えて、プログラマーやブロガーなども選択肢に入れていました。ライターを選んだきっかけは、フォローしていたライターさんの講座を観たことです。記事の書き方や、ライターとして生きていくための方法などを細かく説明されていて、努力の先に結果が出るなら僕にもできるんじゃないかと考えました。過去の経験からコツコツ努力を重ねることには自信がありましたし、文章を書くことも昔から好きだったので、面白そうだなと思いました」

実際ライターの仕事を始めて、がむしゃらに頑張ると収入は右肩上がりに増えていった。

「クライアントさんにも恵まれて、5ヵ月目には30万円の月収を見込めたんです。その後は、先方の事情もあったりで、10万円ほど月収が下がった月もありました。フリーランスとはこういうものなんだな、と肌で感じています。でも、大変な想いもチャレンジしている今だからこそ味わえることだから、こういう経験も楽しみたいですね。今は、もっと多くの素敵な方とお仕事でご一緒できることを夢見て、毎日頑張っています」

濵崎さんスクショ

オンライン取材当日も熱く話される濵崎さん

未経験から始めたライターが、4、5ヵ月で月20〜30万円を稼ぐことは容易ではない。大切にしていることは何かを聞くと、「感謝の気持ち」だと語った。

「僕はディレクターさんやクライアントさんにずいぶん育てていただいています。クライアントさんが求める結果に貢献したいし、成長を続けてディレクターさんを喜ばせたい。あくまで持論ですが、感謝の気持ちがベースにあれば、それが文字にも乗り移ると思っています。頑張る姿勢が伝われば、ディレクターさんから『ありがとう』という言葉が返ってくる。直接顔は見えていなくとも、文字がつなぐキャッチボールみたいなものなのかなって。もっと努力を積み重ねて、お世話になっている方々をたくさん喜ばせたいと思っています」

未来へ向かって

最後に濵崎さんの将来のビジョンを訊いた。

「正直に言うと、ライターという職業にはこだわっていないんです。今は仕事が楽しいし、ライティングを通じて幸せの輪を広げていきたい。だから、来る日も来る日もとことん文章と向き合っています。でも今よりもっとワクワクできるものがあれば、そちらを選択するかもしれない。自分の未来に、限界を作りたくないんです。なので、今後のことは自分にもわかりません。でもこれからもっと大きな幸せが待っているのかなって、すごく楽しみです」


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