Lotos-Eaters

勤め人ときどき愛書家|スタティックな小説と良質の科学文献を好みます

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最近の記事

雨の日のグールド

今から二十年ほど前。記憶障害を患ってしまった主人公がポラロイド写真やメモ、あるいは体中に彫られたタトゥーといった物理的な痕跡を頼りに妻を殺した犯人への復讐に突き進む物語を描いた映画が公開された。その映画の《時系列を逆行しながら事件の真相に迫っていく》という手法が当時、話題になったことを今も憶えている。 これまでに発表されたスタジオ・アルバムを最新作から昔の作品へと遡る。音楽家・坂本龍一氏の歴史をCDで振り返ろうとする行為は、まさにこの映画のようだった。なお、過去の作品を集め

    • 階段本棚

      自宅に帰る日程を翌日に遅らせてまで立ち寄りたかった早稲田大学にある国際文学館。通称、村上春樹ライブラリー。念願だったその館内に立ち入ると、この施設を象徴する場所『階段本棚』にやはり足が向く。大階段向かって左側の本棚には村上春樹氏の描く物語を起点に、そこから導かれる言葉や考え方、社会の移り変わりなどをテーマにした本が配架され、右側の本棚には、様々なジャンルの世界で、日に日に広がり変わり続ける文学の流れを俯瞰している識者たちによって選ばれた本が並んでいる。 大階段向かって右側の

      • 原点回帰 #00

        視線の先にあったビルの窓ガラス。ハーフミラー効果によって映し出される自分の髪が思いのほか白いことに気づく。ふと、記憶の中にあった一枚のモノクロームのポートレイトが頭に浮かんだ。 *多少は分別をわきまえることのできる大人になって以降に『坂本龍一』という音楽家をあらためて意識したのはこの時が最初だったと思います。わざわざ《あらためて》との副詞を付けたのは、僕が子供の頃にはじめて買ったアーティストのレコードが『YMO』のLPだったから。実際は、写真集でも買うかのような感覚で手に入

        • 原点回帰 #04

          コレクションと呼ぶにはおこがましいけど、昨年3月に逝去された坂本龍一氏のオリジナル・アルバムをCDで少しずつ買い集めている。セルフカバーやライブ盤を含めると結構な数の作品数になるので、先ずは録音スタジオで制作された、いわゆる〈スタジオ・アルバム〉に的を絞って。所有欲というより、坂本龍一氏のこれまでの音楽活動を振り返ってみたいと思ったことがきっかけ。 *これまでにリリースされた坂本龍一氏のオリジナル・アルバムは全部で19枚。何度かレコード会社を替わっていらっしゃるから発売元の

        雨の日のグールド

        マガジン

        • Back To The Basic
          5本
        • UNTITLED REVIEW
          16本
        • 走る話
          6本
        • スーツ考
          4本

        記事

          原点回帰 #03

          今さらではあるけれど、ミニコンポを買った。事の発端は、自室で音楽を聴く際のソースユニットとしても使っていたブルーレイ・レコーダーがこれまで一度も聞いたこともないような、けたたましい呻き声を上げたかと思うと、次の瞬間にはどのボタンを押してもうんともすんとも言わなくなってしまったことにある。それに、僕が好む音楽ソースはストリーミング再生が主流のこの時代に今もCD。さらにあろうことか、時代遅れと揶揄されるその記録媒体への憧憬は、昨年3月に逝去された坂本龍一氏のアルバムを少しずつ買い

          原点回帰 #03

          原点回帰 #02

          自室の本棚の本を時々まとめて処分している。本を所蔵している棚の大きさは概ね掃き出し窓一枚くらい。学者やコレクターでもない限り、それほど大きな本棚は必要ないだろう。だから、棚のすき間がなくなると、手もとに残したい本だけを置いて他は処分する。何年かの周期で、その時間や時代を生きるために必要な本を見直す。僕たちの身体を構成する骨や血液、そして内臓が細胞レベルで日々少しずつ入れ替わるように。 *新陳代謝の激しい僕の本棚の中にあって、これからもずっとその場所に有り続けるだろうという予

          原点回帰 #02

          原点回帰 #01

          自宅ではレコーダーに撮り貯めたミュージシャンのライブ映像をぼーっと眺め、マイカーではディスプレイオーディオ全盛の時代にあえて装着したCDデッキを使って、昔に手に入れたジョン・レノンのアルバムを繰り返し流す。ここ何年も、音楽を聴くという行為に対してそんなパッシブな姿勢を貫いてきた僕が自らの嗜好を強く反映したCDを久しぶりに買った。それが昨年3月に逝去された坂本龍一氏が世に送り出した13枚目のアルバム『BTTB』。厳密に言えば初版から二十年を経て新たに発売されたリイシュー盤。同氏

          原点回帰 #01

          UNTITLED REVIEW|白いものたちの

          雪深いまちで一度だけ冬を越したことがある。確かに現在いる場所にも雪は降る。でも、夜半過ぎから早朝にかけてのどこかの時間帯で聞こえてくる除雪車のエンジン音に眠りを妨げられることもないし、朝の通勤がスノーブラシを使って車の雪を下ろすところから始まることもない。かつて暮らしたまちには雪が深く根を下ろしていた。今では朝目覚めて、辺り一面が雪に覆われたりしていても、それを非日常空間を作り出すためのサプライズ演出のように感じてしまう。 ふたつの世界に降る雪に(物資としての)違いはない。

          UNTITLED REVIEW|白いものたちの

          UNTITLED REVIEW|訳者で本を選ぶ

          以前から韓国文学というジャンルが気になってはいたものの、書店の新刊コーナーで面陳列されていたこの短編集を手に取る決断に至らしめたのはあくまでも本書のタイトルだった。 それは三連休を直前に控えた金曜日の午後に起きたいくつかの事件が僕の心を曇らせていて、少しでも元のニュートラルな状態に近づけたいと、そのきっかけを求めて日曜の朝に自宅近くの大型書店へと出かけたときの出来事だ。そのタイトルを目にしたとき、僕は心を覆う名状しがたい雲の形を端的に言い表していると思った。 だが、本書に

          UNTITLED REVIEW|訳者で本を選ぶ

          UNTITLED REVIEW|夢想或いは予感

          村上春樹氏がこの小説を訳さなければと思ったのは2010年のことらしい。ご自身の手がけた日本語版が2012年に刊行される際、あらためて作品を読み返したそうだがそこにはまた違った種類の重さと違った種類の感銘があったと『訳者あとがき』に記されている。その文章が書かれたあと、僕らは長きにわたる世界の沈黙を経験し、新たに開かれたいくつかの戦端を目にした。 村上春樹氏に比べれば、僕なんか浅薄で中味のない人間に等しい。でも、本書の『あとがき』が綴られた頃よりもっと、この物語が深い意味を帯

          UNTITLED REVIEW|夢想或いは予感

          走る話|ホカオネオネのランニングシューズに買い替えた話

          ランニングの際に手袋が必需品となってしばらくしたある日、走り終えて自宅の玄関でふとシューズのソールを見ると新品の時よりも結構減っていた。これがマイカーのタイヤの溝なら雨の日には怖くて運転できないくらいに。よく見ると、ソールのサイド部分にも多くのシワが入っている。それだけ多くの衝撃を吸収してきたということだから機能的にはかなり劣化しているのだろう。というわけで、現在のシューズに交換して1年という節目を待たずに買い替えることにした。 今回選んだのは〈ホカ〉の《リンコン3》。この

          走る話|ホカオネオネのランニングシューズに買い替えた話

          【スーツ考】心躍る スーツ・ライフ

          今シーズンからワードローブに加わったダークネイビーのオーダースーツがこれまで愛用してきた既成のスーツたちをどこか流行遅れを感じさせる代物に変えてしまった。適正サイズだと信じて疑わなかったジャケットのウエスト周りはあきらかにオーバーサイズに映り、スリムシルエットが売りだったトラウザーズの太もも裏側の生地は今や余裕で掴めてしまう。そんないいことずくめのように思えるオーダースーツだが、気になるところがないわけではない。 1.気になる点『生地の素材』 特に気になる点としてはトラウ

          【スーツ考】心躍る スーツ・ライフ

          雑文|AnniversaryⅡ いつもの花屋で

          毎年その日のおよそ1か月前くらいになると、頭の中でピコン!という通知音がなって、これもまた頭の中にしか存在しない、気になることリストに項目がひとつ追加される。 そのあと、まず最初に行なうのが当日の曜日をカレンダーを見て確認すること。その日が土曜か日曜なら最初に向かうべきは、勤務先とは逆方向の街にあるお店でほぼ決まりだが、これが平日となると仕事帰りに立ち寄れそうな店をいくつかピックアップし、巡る順番も思案する必要がある。 幸いにも今年は土曜日だった。こうなれば、あとは目指す

          雑文|AnniversaryⅡ いつもの花屋で

          UNTITLED REVIEW|画一化する世界

          この小説に関するレビューをウェブ検索してみると、これまで崇高なものと信じて疑わなかった多様性という言葉に対する自身の価値観を根底から覆され、打ちひしがれているとの趣旨の声で溢れている。僕は自分の読んだ本と同じ題名の本を別の誰かが読んだところで聞こえてくる本の声風や論意に違いがあって当然だと常々思っているから本来であればわざわざ文章にすることもないのだろうけど、今回の場合は本から受ける印象があまりにも世間と乖離しているように感じたのであえて言葉にしてみた。 多様性という言葉に

          UNTITLED REVIEW|画一化する世界

          UNTITLED REVIEW|企業人のパトス

          これまでも「定年退職」という言葉を漠然とイメージすることはあった。だが自分の定年退職を明確に意識したのはその日が初めてだったかもしれない。会社が在宅ワークを推奨するようになって久しい。最初は慣れない自宅での仕事に戸惑ったが、満員電車に揺られてのストレスフルな通勤や言葉を慎重に選びながら部下に指示を出さなければならない時代へのもどかしさから一旦解放されてしまうと今さら元々あった日常に戻れない。妻と会話する時間も増えた。自宅で仕事をする日は彼女と一緒に昼食を取るから自ずと話す時間

          UNTITLED REVIEW|企業人のパトス

          【スーツ考】靴底に感じるフェティシズム

          街ゆくビジネスマンの足元をよく見るようになった。特に、地面を蹴り上げた瞬間にチラッと見えるアウトソールの素材が気にかかる。遠目にはアッパーの素材が合皮なのか本革なのかの見分けがつかないが、手入れが行き届いているか否かくらいはわかる。その点、アウトソールはわかりやすい。その人が歩いているときにコツコツという音を響かせていればレザーソールでほぼ間違いないし、靴音で判断がつかなければ靴底の色を見ればいい。ソールが黒以外の色をしていたら、たぶんそれはレザーソール。でも、これまでの僕が

          【スーツ考】靴底に感じるフェティシズム