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Ars longa, vita brevis.

スムーズな寝付きのため、就寝前に行うその人独自の習慣のことを入眠儀式と呼ぶそうだ。僕はJVCケンウッドのミニコンポを買って以降はほぼ毎日と言っていいくらい、小さな音量で音楽を流しながら眠りにつく。よく聴いているのが2020年に坂本龍一氏がオンラインで行なった無観客のピアノコンサートのライブ音源を収めたアルバム『Playing the Piano 12122020』。

僕にとって、心とからだをスムーズに就寝モードへもっていくためのスイッチとして機能しているこのアルバム。でも、坂本龍一氏の自伝『僕はあと何回、満月を見るだろう』に、このコンサート前日に受診した人間ドックでガンの転移が見つかり、医師から「何もしなければ余命は半年」と告げられた事実が記されていたことを思い出し、こんな穏やかな1日の終わりが無限にやって来るわけではないんだなと、しみじみ想う夜もある。

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今回の連休が始まってすぐに、109シネマズプレミアム新宿で坂本龍一氏の最後のピアノ・ソロ演奏を記録した映画『Ryuichi Sakamoto | Opus』を観た。先述したコンサートの演奏は心身ともに最悪のコンディションで行なったため、坂本氏自身としては少なからず後悔が残ったという。本作品はそんな悔しさと「まだ辛うじて満足のいくレベルでピアノが弾けるうちに、未来に遺すのにふさわしい演奏姿を収めておきたい」という想いから生まれた企画がベースになっている。

撮影はあらかじめ用意したセットリストを通しで弾く姿をカメラに収めるのではなく、ピアノ・ソロを1日に数曲ずつ収録し、それを最終的に20曲で構成されたコンサートの形に仕上げるスタイルがとられた。その理由を坂本氏は、昨年1月にNHKで放送された本作品のメイキング映像とも言える特別番組の中で「長期にわたる闘病生活によって演奏を長く続けるほどの体力が残っていないため」と語っておられる。しかしながら、それでもあきらかにミスタッチとわかる箇所がいくつもあったし、ご自身で納得のいかない音だったのか演奏中に表情が何度も曇る場面があった。

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全編モノクローム映像で構成された作品ということもあるが、ピアニストの演奏にありがちな華麗さや優雅さはそこにはない。僕が感じたのは、死を覚悟した者がまさに渾身の力を振り絞ったからこその美しさと儚さだった。コンサートが粛々と進む中、僕の心に様々なセンチメントが浮かんでは消えていく。そして、セットリストのちょうど真ん中あたりに用意されていた坂本龍一氏が娘・美雨さんのアルバムのために作った楽曲『aqua』の演奏が始まってすぐにそれは起きた。突然、涙がとめどなく溢れ出て止まらなくなったのだ。その時の感情を適切に言い表わす言葉を僕は持ち合わせていない。只々、涙が止まらなかった。

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街の雑踏は人生を尽きぬ泉と思わせ、雲ひとつない空は夜の闇を忘れさせる。時計の針が巻き戻ったかのように思えた静謐な空間から、時間さえもけたたましい音を立てて先を急ぐ、喧騒に溢れた世界へと帰還した時、僕はそんなことを考えた。Ars longa, vita brevis. 芸術は長く、人生は短し。





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