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愛するということ/愛していたということ
犬を飼っていてよかったなあ、と思うことがいくつかある。
はじめての犬は20代後半の頃にうちにやってきた。当時はすでにゴールデンレトリバーやシベリアンハスキーといった大型犬のブームは去っていて、チワワやミニチュアダックスフント、トイ・プードルなどの小型犬が幅を利かせていたのだが、当時から色々こじれていた私は「イタリアが好き」というだけの理由でイタリアングレイハウンドを飼うことにした。
通称イタ
写真はどこまで改竄できるのか(修正版)
GRを使って写真を撮り始めた最初の頃からずっともやもやしていた問題で、おそらくこうやってまとめて書いたとしてもそのもやもやが消えることはないのだと思う。もともと解決する類の問題ではなくて撮る本人がどれだけ納得しているかどうかということなのでいいのだけど。
解決こそしていないのだけどGRのフィルター機能を使うのをやめた(正確には「スタンダード」のみに絞ってなるべく見たままの写真が撮れるように調整
「不幸せ」よりほかを望むことなく
「幸せではないが、もういい」(ペーター・ハントケ作 元吉 瑞枝訳)を読んだ。最初あまりに言葉が強力だったので元ネタでもあるのかとタイトルで検索したところ、どうやら小説だったということがわかり、そのままポチッとして、その翌日には届き、今に至る。短い本なのですぐに読んでしまった。
「もういい」という言葉には捨て身の、投げやりな、諦観の響きがある。
「不治の病だが、もういい」「ひとりぼっちだが、
写真のおはなし:「楽しければいい」と「楽しいだけじゃイヤ」の間で
カメラで写真を撮るとき、そのほとんどは撮ってすぐにプレビューで確認し、その時点で消す。なので毎回撮影に出かけても結果的に枚数が少ない。さらにtwitterにあげる時はその中からさらに厳選して「観てほしい」写真を載せるわけで、そうするといわゆる「納得して撮れた」写真なんてものはごく僅かしかない。多分枚数的には先代GR2の頃から合わせて6〜7000枚くらいは撮っていると思う。カメラを始めて3年目だけ
もっとみる寂しい、と孤独は、それぞれ心のほかの場所にあって
寂しいと思う気持ちと、孤独というのは別の感情だと思っている。
寂しさも孤独もなくなることはないが、寂しさを紛らわすことは可能だ。
誰かに会う、買い物をする、趣味に没頭する。
方法は人それぞれ違うが、その時だけ寂しさは紛れる。
「寂しくしている自分」を忘れることができる。
さびしさ、というのは物や人や欲望など、ある対象物を志向する。
寂しくしている自分は、何かを志向することで寂しさを紛らわしたり打ち
「みえるもののむこう」展:神奈川県近代美術館
写真について、
インスタレーション:写真とスライド、メモ書き、ノート
文章と組み合わせた日常の風景、ポリティカル、自己から国家までの包括的なアプローチ
きっとその場で見て、感じたことは写真で伝えることはできなくても、そのとき感じた思いが完全に消えてなくなってしまうわけじゃない
「とても細く、頼りなく、でも確実に繋がっている」
であれば、写真を撮る、撮り続けるという行為に意味が生まれる
余白と感
キーボード/iclever IC-BK03を買ってみた
はじめてBluetoothのキーボードを使ってみたのだけど、もともとこのくらいの大きさなのか、普段ノートPCで使っているキーボードとあまり変わりはない。
打鍵感も心地よくタイプミスもない。
強いて言えば文字を消す時「backspace」と「delete」を微妙に使い分けないといけないのだが、これは自分のくせのようなもの特に商品の問題というわけではなさそう。
今のところ良くない点は一つだけ、
「穴の中で死んでしまうひとたち」について
むかし村上龍せんせいがエッセーに書いていたのだけど、コッポラ曰く「映画には二つの種類しかない、主人公が穴から落ちてそこから出る話と、そのまま穴の中で死んでしまう話だ」ということを言っていてやたらと感銘を受けた記憶がある。
自分自身が内向的で個人的、影響が外部に向かわないタイプのパーソンだから(他人に興味がない、自分の好きなものしか好きじゃない、自分に害がない限りでしか他人を擁護できない自分フ
小説の主人公を女性にすることが多いのは、想像力で世界に触れたい、という思いと自分の内の女性性、客観性を書き出してみたいという気持ちからだと思っている
再び雨戸を叩くまでの、ほんの少しの
わたしは台風がやってくる前の、なんとも言えない雰囲気が好き。
街全体に漂っている、何か取り返しのつかないことが起きてしまったかのような空白の気配が好き。
風もなく、日も照っているのに、落ち着かず足早に交差点を横切っていく人たちを眺めるのが好き。
いつも真っ暗になるまで子供たちで賑わっている市民公園に、誰もいないことに気がついた瞬間が好き。
ほとんど動いていないくらいに寄せては返している砂
小説を書いていた頃のはなし
昔、小説を書くのが好きで、自分はそれなりにちゃんとしたものを書いている、と思っていたことがあります。
今でも恥ずかしながらPCの奥に大事にしまってあって、時折眺めては「結局何者にもなれなかったなあ」と思う、まあ一般的にはよくある話だと思うのですがその時は自分を作家崩れのように思っていましたし、そういう自分自身にもしっとりした不健康な満足感を感じていました。
今ではSNSを眺めるだけで、たく
以前は小説を載せたりしていたのだけど、備忘録も兼ねてまた書いてみようかなあと思っています
もともとある形のくぼみがあった場所にそれが一体どんな形なのかを考えながら言葉を埋めていく作業がいちばんすきだった時期があって、その時のことを最近よく思い出します