「穴の中で死んでしまうひとたち」について

 むかし村上龍せんせいがエッセーに書いていたのだけど、コッポラ曰く「映画には二つの種類しかない、主人公が穴から落ちてそこから出る話と、そのまま穴の中で死んでしまう話だ」ということを言っていてやたらと感銘を受けた記憶がある。

 自分自身が内向的で個人的、影響が外部に向かわないタイプのパーソンだから(他人に興味がない、自分の好きなものしか好きじゃない、自分に害がない限りでしか他人を擁護できない自分ファースト)だからだと思うのだけど、昔からリアルにしろネットにしろ、「穴の中で死んでしまうひと」に関心を向けてきた。

 「穴の中で死んでしまうひと」はとても優しくて、傷つきやすく、身勝手だ。
 その穴はとても深くてそのひとしか入れず、血液脳関門のように特定の何かを遮断するようにできている。
 他人の介入によって自分のキャパシティーが拡大する、他者との関わりによって自己が成長するということを「信じていない」。
 「頑張る」「努力する」ということがどういうことなのかもあまりわかっていない。そのひとにとってはそれが「当たり前」のことで、「自分の好きのためにやるべきことをやっている」というただそれだけのことだからだ。他人に聞かれれば「頑張ったよ」「努力したよ」とは返すが、それは本質からは離れたリップサービスの類でしかない。
 たとえ傷ついていたとしてもそれを(近しい人にほど)言うことはない。他人に理解してもらおうと思わないし、それで救われようとも思っていない。
 それとは全く別のところで、他者の情緒には敏感だ。他人がどう思っているのか、自分がどう思われているのかを読み取るのがとてもうまく、勝手にそれを喜んだり、気に病んで憂鬱になったりもする。もちろんそれは「そう思う」だけのことだから他者に伝わることはない、たとえ伝わったとしてもそれをどうとも思うことはない。「勝手にそう思っているだけ」ということをよく自覚しているからだ。
 だから、一過性の関係性にはとても強い。一見してとても優しく、思慮深く、束縛したり独占しようとしたりプライベートに立ち入ったりすることもない。他者からはそう見えることもあるだろう。ただそれは相手のことを思ってではなく、「自分ができる範囲で、してあげられることをしているだけ」というだけのことだ。本質ではなく、未来もない。
 自分が自分自身でいられるように(それもまた不安定なものだけど)、自分だけが入る深い穴を時間をかけて掘ってきたひとたち。
 そういう風にしか生きられないひとがたくさんいて、そしてそういうひとたちのことをとても愛おしく思っている。そのひとには知られることもなく。

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