愛するということ/愛していたということ

 犬を飼っていてよかったなあ、と思うことがいくつかある。
 はじめての犬は20代後半の頃にうちにやってきた。当時はすでにゴールデンレトリバーやシベリアンハスキーといった大型犬のブームは去っていて、チワワやミニチュアダックスフント、トイ・プードルなどの小型犬が幅を利かせていたのだが、当時から色々こじれていた私は「イタリアが好き」というだけの理由でイタリアングレイハウンドを飼うことにした。
 通称イタグレ、第10グループ、サイトハウンド、視覚狩猟犬に属する。小型犬最速の圧倒的な速度、シャープな体、ローズ・イヤーといわれる独特のねじれて垂れた耳…ロータスのエリーゼのごとく小さなスポーツカーのような、小柄な体に縄を撚ったような筋肉を蓄え、空間をすっ飛ばすような速度で疾る影。
 ちゃんと走っている姿を写真に収めておきたいがためにわざわざ一眼レフのカメラを買ったくらいだ(これを犬貧乏という)。
 亀戸のペットショップに3ヶ月のブルーの仔がいると聞き、会いに行った。
 透明のアクリルケースの中でピョンピョン跳ね回る彼は、子犬というよりは少し大きい感じがした。
 今思えばおそらく子犬の販売、という意味ではすでにだいぶ月日が過ぎてしまっていたのか、子犬の相場(おそらく10〜18万)よりもだいぶ安い価格ではいたのだけど、一目見て気に入ってしまったので(そして犬を飼うのがはじめてだったので)すぐにその子を迎えることにした。多くの愛犬家がそうであるように、はじめてその子を抱っこしたときの感動はまだ覚えている。
 話は変わるが自分はそれまで情緒というものに鈍感な人間だと思っていた。簡単にいうとあまり涙を流さない人間だった。感動、というものに心が無関心だったと思っている。周りがわんわん感情を昂らせていくことに醒めていく、そういう人間だった。
 それがその仔を抱っこしてから変わった。変わってしまった。少し震える、ビロードのような短くツルツルした毛並み、あたたかさ。子犬特有のベビーフードのような甘い匂い…
 あれは生まれて初めて「庇護欲」というものが生まれた瞬間だった。その後娘たちが生まれたり、もちろん年齢的な変化もあるのだろうけど、やれやれ涙もろくなったなあという自覚があるくらいにはよく涙を流すようになった(いまだに子どももの、犬ものの感動ストーリーみたいなものは観れない)。
 今でこそ「育児サイコパス」を自称するくらい子供のことを愛してやまない私だが、その萌芽が紛れもないこの犬との出会いにあったのだと思っているし、子供たちが生まれてくる前にこの仔に会えたことは、とてもよかったのだと今でも思う。
 それから18年間、通常の人間関係よりもずっと長い時間を共にしてきた。
 2回に渡る骨折(イタグレはその体型上、骨折することがとても多い)、心臓から雑音が聴こえると言われて大きな病院に連れて行ったこともある。しつけも大変だった。服の紐やボタンはかじる、壁を削って穴を開ける、用意しておいたクリスマスのチキンがお風呂から出てきたら消えていた、なんてこともあった。
 それでもドッグランで走る姿は美しかった。サルーキやアフガンハウンド、ウィペットなどもそうだがサイトハウンドというのは本当に「信じられない」くらいのスピードを出す。3年後にやってきた弟犬がまだ小さく、懸命に走る速度に余裕で追いつき、並走しながら弟の体を横切ってジャンプし煽っていたことを思い出す。
 やがて10年、15年と時が経ち、リードを外しても走ろうとしなくなり、公園に連れて行っても牧草を食む羊のようにおとなしくなった。
 そして現在、彼は両目は白内障をわずらい視力もなく、歯も抜け落ちて口からは悪臭を放ち、おしっこをそこらじゅうにし、よだれを垂らすようになり、部屋の中をうろうろしながら食事をし、ベッドで寝るだけの存在になった。それでも会えばそばに近づいてきて、顔を擦り付けてくる、ここ最近はそういう暮らしぶりを続けていた。
 昔に比べて食事や運動、医療面でも犬や猫を取り巻く環境は変化した。寿命も延びた。犬の1年は人間の7年と言われている。18年間ということは約126歳。人間ならとっくに寿命を迎えている歳だ。
 娘たちはいずれ「自分が近しく、長い時間を共に過ごした生命が消えていく」様子を目の当たりにすることとなるだろう。情操教育の一環、といってしまうと身も蓋もないが、そういう体験を子どもたちにさせてあげたかった。そして私も。
 そしてその時は来た。前の日から様子がおかしい、と娘からのlineが届き、おしっこも出なくなっていた。そう永くないだろうことを伝え、ペットの葬儀や火葬についての手配をすることにした。
 翌朝彼は娘たちが見守る中で息を引き取った。愛用のベッドごと業者に引き渡し、ほどなく火葬となった。
 人間の葬儀も終わってしまえばあっという間だ。当初ものすごいショックを受けることを想像していたのだが、今こうして彼との思い出を思い返してみると彼は彼なりに生まれ、育ち、18年間を過ごしたのだという事実の方が強く輝いていて、然るべく収まるべきところに収まったのだ、という気持ちの方が強い。寂しくないといえば嘘になるが同時によかったな、とも思っている。
 そうか、君はもういないんだな。
 この先なんどもそう思うだろう。その度に君のことを思い出し、少し悲しくなって、そのあと温かい気持ちを取り戻すのだろう。パパが親バカなのは君のおかげだ。大切なものに優しく接するということを、君が教えてくれた。

 ありがとう、ヴィクター。

 

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