再び雨戸を叩くまでの、ほんの少しの

 わたしは台風がやってくる前の、なんとも言えない雰囲気が好き。
 街全体に漂っている、何か取り返しのつかないことが起きてしまったかのような空白の気配が好き。
 風もなく、日も照っているのに、落ち着かず足早に交差点を横切っていく人たちを眺めるのが好き。
 いつも真っ暗になるまで子供たちで賑わっている市民公園に、誰もいないことに気がついた瞬間が好き。
 ほとんど動いていないくらいに寄せては返している砂浜のような、凍りついた世界が好き。
 さっきから水音が聞こえる。リモコンを持ったままソファで寝てしまった時の、放送を終了したテレビのノイズのような音が、小さくこもって廊下に響き渡っている。寄りかかる廊下の先から聞こえる音に、彼女は気が付いていない。先ほど急いで帰宅したばかりの彼女のワンピースの裾にも、玄関で片方倒れたままの黄色いリボンのミュールにも、湿気で膨らんだ短い髪にも、使わなかった緑色の傘にも、雨の気配が染み付いている。彼女は小さく息をついた。
 既に暗くなりつつある部屋の中は、家具や窓のへりを照らし出していた光と陰の直線を曖昧な、スポンジを押し付けて描き出した抽象画のように変えてしまっている。薄く瞳を開けると、最初に視界に飛び込んでくるようなそれは、ドアの前に立って窓を眺める彼女から見ても、灯りなしでは線を結ぶ事はない。テーブルの脚、散らばったメモと色とりどりのクリップ、閉じたままのノートパソコン、ステンレスのコップ、モンステラの鉢植え、サーモンピンクのソファーベッドに茶色いエルクが描かれたブランケット、空のままぶら下がっている鳥籠、剥いた卵のように白いフロアーライトたちは、レトロな空気感を漂わせたまま彼女の視界の中で凍りつき、誰かが灯りをつけて、生活感の息吹をそっと吹きかけてくれるのを待ちながら、ゆっくりと声もなく、夜の空気に沈んでいこうとしている。
 水平線を境に水と油のように残る夕日と明るい曇り空の気配は既に消え去ろうとしており、その上からは空いっぱいの星もない暗闇、ネズミ色と紺色が渦を巻くような雨雲が厚く広く覆っている。それはいつまでも開かない映画館の緞帳のように、気づかずゆっくりと揺れている。
 室内の湿度は上がっていく一方で、その反面外は大きなものが体を揺する時のような風が、あらゆる角度から吹いている。窓から見下ろす道路の横に植えられた、椰子の木達が強い力でしなり、音を立ててさざめいているが、部屋までその音はまだ届かない。木が風で一往復、二往復する度に、雨が近づいてきているのが分かって、彼女の白いワンピースの背中を電気のような風が走り抜けた気がした。
 雨が降る前で、良かった。
 シャワーの音が止まり、彼女はゆっくりと浴室に目をやる。廊下を埋め尽くしていた水音に、彼女はその時気がついた。
 迎えに行くにも、きっと駅前は人でいっぱいだし、雨が降ってくればあの辺は洪水みたいな有様になる。道路は僕と同じように誰かを迎えに行く車と、タクシーで渋滞になるよ。
 だから、雨が降る前で良かったよ。買い物はできた?
 浴室のドアが開いて、リネンのスウェットパンツにタオルを首からかけただけの男が、髪を拭きながら出て来る。タオルが動くたびに、手首にかけられた15金の細いブレスレットが浴室の明かりに照らされて踊る。まだ付き合い始めた頃から、男はずっとそれを身につけている。もとは彼女がつけていたものだ。
 俺に会う前から君が身に付けていた何かを、俺にくれないか。
 切れば感情があふれ出す、イチゴのような甘い記憶も今や遠い。そしてささやかで深い、予定調和の中に潜んだ贅沢な優しさだけが波に洗われたガラスのように、変わることなくふたりの中に残った。
 彼女は窓の外と男の方を交互に見やりながら、ワンピースのボタンに手をかけている。
 あら、雨が降ってきちゃったら、迎えに来てはくれないの?
はだけた肩に新しい湿気が寄りかかってくる。浴室から流れ出した、暖かくてきめ細かな湿気を、彼女は胸の奥まで吸い込む。大きく息を吸った後、彼女はそのままワンピースを床に落とし、下着姿になった。マグノリアが肩口と胸元に刺繍された下着は、彼女のお気に入りだ。
 迎えには行くさ。ただ僕は君を待たせるのも、待つのも嫌いなんだ。買い物は?
 鞄と一緒に、玄関。
 すれ違いざま、髪を拭いている男のくちびるにキスをして、彼女は浴室に入った。素足に伝わる少し湿ったバスマットの粗い感触に男の身体を思い、彼女は眼を閉じる。
 ありがと。だけど私は台風がやってくる前の、なんとも言えない雰囲気が好きよ。
 さっきまでその事をずっと、考えていたの。
 俺が風呂に入っている間、ずっと?
 そう、ずっと。とてもわずかな間だけど。
 肩越しにそう言って、彼女は浴室のドアを閉める。白木のドアが閉まり切る直前に部屋と廊下に灯りがついて、雨粒の最初の一滴が窓を強く打ちつけた音が昼光色の光になり、彼女の首筋を一瞬だけ照らした。

 コップからこぼれそうな水のように、ぎりぎりいっぱいまで満ちていた湿度は、雨の一滴で破られた。
 ずっと以前から、空が水色に晴れ渡っている時からそうであったかのように、アスファルトの表面を、赤と緑のストライプの大きく張り出したレストランの日除けを、目を凝らしてももはや分からない、空越しに張り巡らされた電線を、街から遠く離れて立つ、背の低い山々を、汗が気付かず染み出してくるように雨が濡らしている。
 街はいつの間にか、薄黒い水、泥や埃を含んで流れるだけの世界に変わり果てた。
 道路の横を小川が流れ、車のライトが耐えず流れを照らし出し、砂や小石を押しながら排水溝に消えて行く。植木や街路樹は風に押さえ付けられ、水没したかの様に曲がり、垂れ下がり、うな垂れている。色とりどりの傘が床に散らばるビーズのように鮮やかに、不安定に動き回り、気まぐれな大風に捲くられて、弾き飛ばされた傘は骨組みまで折れ曲がって地面に横たわっている。人々の舌打ちと苛立ち、悲鳴の様に高い声。クラクションとブレーキの音、人が足早に走り過ぎ、あるいは雨宿りしながらじっとり濡れていく肩口や、靴下の冷たさに耐えながら助けを待つ世界。全ての場所が重苦しく、薄暗い中で、携帯電話の液晶だけが場にそぐわず、白々しく光っている。
 だが、窓一枚、壁一枚隔てた部屋の中はそれらの喧騒や息苦しさとも無縁で、暴力的な風雨とも隔絶された温かい光と白い壁に見守られており、静かなままそこに存在している。
 音がない、わけではない。TVの台風情報はどこか近くの、あるいは遠くの風や波の砕ける音を緊迫したアナウンサーの声と共に部屋いっぱいに流している。キッチンでレタスを洗い、手でちぎり分ける音、グリルに入った若鶏の肉が熱に炙られて、ゆっくり焼けていく音、食卓の完成を待っているテーブルライトの影に張り付いた小さな、白い綿毛の様な蛾が笹の若い葉をこすり合わせる音、椅子を引く時に立てる、フローリングを傷付ける音。室内は大小あらゆる音が満ちている。
 それなのに彼女の意識にそれらの音は、全く浮かび上がってくる事はない。外の嵐が強ければ強いほど、引き換えに部屋の中が沈黙で満たされていく気がしている。男と向かいあい食事の時間にする時、彼女の耳は外の音と男の声に集中するあまり、本来の室内の音を忘れてしまっている。
 まだまだ静かね、台風は今どの辺にいるのかしら。
 男がパンを齧る手を止め、TVのチャンネルを変える。大波とカメラに当たるしぶき、レポーターの姿が消え、地図が画面に大写しになった。
 1時間に20kmの速度でこっちに一直線だな。
 その声を聞きながら氷水で晒したレタスを噛み締めたとき、はじめて沈黙が消えた気がした。
 彼女は口の中でレタスの感触を楽しんでいる。歯に当たり裂ける艶めいた繊維は、ソースと舌で絡まって喉の奥に落ちていく。彼女の背後ではさっきまで聞こえていたシャワーの音よりはるかに低く太く、海鳴りに似た音が絶えず鳴り続けている。出口の見えないトンネルの中のような音、男の言葉通りならばその音はますます強く、大きくなっていくはずだった。
 明日まで、予定はない?
 男がパンを小さく分けて、細長いトレイの上に置いている。細かく千切る時に浮き上がる、型に押し付けたような腕のライン、長くて節のある指が、小さなパンの塊を丁寧に皿の上に置いていく。男は食事のときわざと料理に手間を加え、時間をかけて話をするのが好きだった。片手の中に全て入ってしまうくらい、小さく分けたパンの山を、男はひとつひとつゆっくり手に取り、バターを少しだけつけて、口に運んでいく。
 君の食事するスピードに合わせたいのと、たくさん話をしたいからかな。俺はもともと、食事なんてあっという間に終わらせてしまうタイプなんだ。ご飯に卵をかけたりしてね。口も大きいし、本当にあっという間だよ。
 でも最近、歳をとったのか何なのか、時間をかけて食事するのもいいなって思うようになったんだ…
 以前ふたりでスペインに行った時、あれはツバメが巣を作る様な鋭く、高い崖のふもと、海に伸びていくテラスのあるレストランにいた時の事だ。パエリアの貝や海老を細かく切り分ける男に、彼女が疑問を投げかけて、男がそう答えたのを覚えている。
 明日は1日、ここにいるつもり。雨が止むまで。
 彼女はそう答えて、白ワインを口に含む。口の中の鶏とソースの香りを洗い流すように、アルコールと強い酸味が鼻を抜けて、肩から力が抜ける。柔らかくなった彼女は少しだけ赤くなった男の頬を見ている。
 台風が消えた後の海を見に行こう。きっと面白いよ。
 男はそう言いながら、少しも面白くなさそうにバターをパンになすりつけ、口に運ぶ。およそ2個に1度くらいのペースでサラダか鶏を口にし、白ワインで口を洗う。彼女にその光景は好ましく見えている。リスか何かが几帳面に冬籠りの支度をしているかのように、感情の起伏に乏しく内省的な姿。男が彼女の前でリラックスしているのがよく分かり、少しだけ胸の鼓動が早くなるのを、もはや身体の中から消えてしまった、シャワーを全身に浴びた時の熱が、指先から酔いと共にゆっくり戻ってくるのを感じている。
 ひときわ大きな風が部屋の周りを巡って横殴りにつきあたり、窓ガラスが硬く大きなものを乱暴に放り投げたような音を立てた。テレビの画面に一瞬ノイズが走り、大きく歪んだ後で再び地図を画面いっぱいに映す。
 次の台風情報は、21時30分からお送りします…
 弾かれたように見た窓の外は延々と続く光りのない暗闇と、荒れ狂う雨と風の気配だけがあり、もはや街の景色すら視界に捉えることはできない。
 立ち上がり、食器を片づけようとする彼女の後ろで、グラスに入ったわずかな飲み残しの白ワインが、小さく揺れている。

 彼女は換気扇の下で煙草を吸おうとして、初めて風向きが普段のそれではないことに気がついた。弾けんばかりに膨らんだ風船を無理やり押し付けているかのように、風のかたまりが家を覆っている。本来外へ換気するはずのプロペラは確かに回ってはいるものの、煙は帰る場所をなくしたかのように、キッチンへ流れ出ようとしている。

 わたしは台風がやってきた時の、なんとも言えない雰囲気が好き。
 街全体に漂っている、何か取り返しのつかないことが起きてしまったかのような空白の気配が好き。
 風もなく、日も照っているのに、落ち着かず足早に交差点を横切っていく人たちを眺めるのが好き。
 いつも真っ暗になるまで子供たちで賑わっている市民公園に、誰もいないことに気がついた瞬間が好き。
 ほとんど動いていないくらいに寄せては返している砂浜のような、凍りついた世界が好き。
 さっきから水音が聞こえる。

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