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写真はどこまで改竄できるのか(修正版)

 GRを使って写真を撮り始めた最初の頃からずっともやもやしていた問題で、おそらくこうやってまとめて書いたとしてもそのもやもやが消えることはないのだと思う。もともと解決する類の問題ではなくて撮る本人がどれだけ納得しているかどうかということなのでいいのだけど。
 解決こそしていないのだけどGRのフィルター機能を使うのをやめた(正確には「スタンダード」のみに絞ってなるべく見たままの写真が撮れるように調整した→追記:今は結局拘らず使いたいフィルターを使うようにしてる)のでいい機会だと思い今の思うところをまとめて書いてみることにする。

 GRだけでなく、カメラには様々なフィルターがある。
 iphone、instagramなどにも搭載されている撮った写真をより効果的に見せる機能のことだが、今回の文章中ではそういったものからlightroomに代表される高度なフォトレタッチ機能も含めて全て「フィルター」と表現することにする。

 あと、フィルターをバチバチにかけた写真が嫌かというと、別に嫌じゃないし、それを使いこなして写真を撮っているひとはアマチュアからプロまで無数にいる。
誰かが言っていた「デジタルデータ、という時点で既に改竄され、改良されることを前提とした環境(うろ覚えだけど確かそんなこと)において加工した写真は真である」という言葉もまた正しいと思う。自分の視覚に100%合っているカメラなど存在しない。それはあくまでも撮った人が目で見て「こうであれ」を仮託した「イメージ」なのだ。※写真はイメージです。 

 写真もそうでフィルターをかけた「それっぽい写真」の方が良い、ということもあるだろう。GRに関して言えばモノクロの切れ味が秀逸でただの町並みを撮るだけでもそれなりに「それっぽい」写真が出来上がってしまう。デジタルカメラは言うに及ばず、フォトレタッチの発達は機械で計算された彩度、コントラスト、減光処理、シェーディングで「それっぽい」写真を容易にした。カフェなら少しレトロな、懐かしい感じの。夜景ならライトの色がより際立つ、ビビッドでシャープな。本来そこにないはずの光を持ち込むことも、色を変えることもできる。それを否定するつもりはもちろんないのだけど「それっぽい写真は『それ』ではない」という言葉がずっと胸の奥にあって、ひっかかっている。その根っこはどこにあるのかずっと考えていた。今も考えている。

 自分が見て「美しい」と感じたものを写真に留めて、誰かに見てもらう、その誰かが自分と同じように「美しい」と感じてくれたらいいなと思っている。それが自分にとっての「いい写真を撮るということ」だ。自分が見たありのままが美しければ、おしゃれな効果を持つフィルターを使う必要はない。逆に可能な限り見たままに近づけるフィルターが必要となることもあるだろう。自分の中での「いい写真とは何か」という定義が少しはっきりしたおかげで、ようやくこうやって文章にまとめることができた気がする。
 繰り返すけどあくまでも自分にとっての定義なので他の人の撮り方は別に気にしない。クロスプロセスはいいぞ。

 でも今はなるべく見たままが撮れたらいいなと思っている。「ありのままの美しさ」なんて本当はどこにもないのかも知れないけど、それでも。


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