我、自分というものについて

仏教を少しでもかじったことがあるなら聞いたことがあるかも知れない。

我は無いと。

いや何言ってんの、趣味とか性格とか、あるやん。
って思ってたんだけど。10年くらい。
最近はそういうものでは無いと思い、そうかもなぁなんて思うようになってきた。

最近知った「洞窟おじさん」。辛い過去から何十年も1人で山の中で生きてきた方です。その方は一度ハイキングの方と出会い、家に泊めて頂いたそうですが、長い山の生活で人の社会には馴染めずに、また山に帰ったそうです。

「私」というものは、「相手」がいてこういう人間と自分で作っている気がする。相手に優しい自分、思い通りにならなくて腹を立てる自分、人から称賛されたい、有名になりたい、あの人よりもっとお金が欲しい、なんて人と関わって生まれるもの。これがあなたで私。

内弁慶さんいるけど、良くないよね。心を表してる。自分への戒めだけど、近い人にこそ実践の場。顧みることなく、怒りを知り、怠慢を知り、相手に慈悲を持って接する事が大切なんだと、昨日の葬儀で知る。

相手によって態度を変えて、かしこまる人にはかしこまる、適当でいい人には適当、そんな事してるから疲れちゃう。
常に、慈悲を持った心で、家族でさえ、パートナーでさえ、子供でさえ他人なのだから、相手が自分に対してイラッとすることをしてきても、心穏やかに優しく接する事が大切だ。
これは檀信徒への対応と、家族の対応を変えているようではへつらいと変わらない。

相手との関わり合いで、自分がどんな存在か知る。我を知る。分子や原子から見れば皆同じ。

どんな人にも、穏やかな心でありたい。

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