やまもと かつとし

心に思い浮かぶ様々なことや日々過ごすなかで感じる諸々のことなどを、イエス・キリストを救…

やまもと かつとし

心に思い浮かぶ様々なことや日々過ごすなかで感じる諸々のことなどを、イエス・キリストを救い主として信じる私自身の視点から書き綴っていきたいと思う。1998年から書き続けてきて、2003年からブログにも載せてきたけど、新しい媒体に挑戦。

最近の記事

地上を歩いた神(42・最終回)

(2006年10月8日 初版公開) 湖を眺めながらの朝食が済むと、彼らは一息ついた。果てしなく広がる空の下で、敬愛する師としばらく振りで食事をしたことに彼らは満ち足りた思いであったろう。その時、イエスがペテロに呼びかけた。「ペテロ、あなたはここにいる誰よりも私のことを愛しているか?」 「はい、私が先生のことを愛しているのは、誰よりも先生がご存じでしょう。」 「それでは私の子羊を飼いなさい。」 間を置かずに、イエスがまたペテロに聞いた。「ペテロ、もう一度聞くが、あなたは

    • 地上を歩いた神(41)

      (2006年10月1日 初版公開) 復活されたイエスの姿を自らの目で一度ならず二度までも見た弟子たちは、それまで感じていた不安や悲しみが消え去っていくのを感じたことだろう。死の力さえもイエスの前では何もなせないことを知ったことで、イエスがいる限り恐れることは何もないであろうことにも気付いたかもしれない。いつまでも閉め切った部屋の中で今後のことを思い悩んで過ごすことに何の意味もなかった。 さて、まず彼らがしたことは食料の調達であった。何をするにしても、しっかりと食べるも食べ

      • 地上を歩いた神(40)

        (2006年9月24日 初版公開) 復活したイエスに出会ったマグダラのマリヤは、そのことを弟子たちに告げた。ところが、弟子たちはそれを聞いて喜ぶどころか、彼女の言うことに耳を貸そうとはしなかった。彼らはイエスの死については確信していたようだが、彼の復活については全く信じようとはしなかったようである。 イエスは神の子であり自らも神であるから、かつて死人をよみがえらせたように、ご自身も死に束縛されることなく復活した…そのように言葉で言ってしまえば、それはそれで簡単なことである

        • 地上を歩いた神(39)

          (2006年9月17日 初版公開) イエスが埋葬された翌々日の早朝、マグダラのマリヤはイエスの墓にやってきた。イエスが亡き後も、できることならイエスのそばにいたいとの思いがあったのかもしれない。そうすることで、少なからずとも慰めを得ようとしていたのかもしれない。日が昇るのを待ちきれなかった彼女は、まだ空が暗いうちにイエスの墓にやってきた。 いざ墓の前に来るとまったく予期していないことが彼女を待ち受けていた。なんと墓の入り口を覆っていた石ーおそらく彼女の身長を上回る大きさで

        地上を歩いた神(42・最終回)

        マガジン

        • 地上を歩いた神
          42本

        記事

          地上を歩いた神(38)

          (2006年9月10日 初版公開) 「ユダヤの王」という罪状の元、十字架につけられたイエスの足下では、一通りの仕事を終えた兵士たちが、イエスの着物を誰が取るかとくじを引いていた。そのそばではイエスの母とその姉妹、また彼を慕っていた女性がなすすべもなくイエスを見つめていた。そして、一人の弟子もそこにいた。しかし、彼もまたイエスを最後まで見守る以外に、できることは何もなかった。 そのような中でイエスは、人としての命を終えた。 さて、イエスと二人の罪人の処刑は安息日の前日に行

          地上を歩いた神(38)

          地上を歩いた神(37)

          (2006年9月3日 初版公開) 他にどうすることもできなかったピラトは、イエスを兵士たちに委ねることにした。ユダヤ人たちはようやく彼らの目的を達成することができたのである。 イエスは十字架を担がされ、ゴルゴタと呼ばれる場所へ追い立てられるようにして行った。ゴルゴタ、その意味するところは「どくろの地」である。なぜその場所がそう呼ばれたのかは分からない。しかし、処刑の場所にふさわしいような薄気味の悪い、不吉な名前であることだけは確かである。そのような場所へ、イエスは傷だらけ

          地上を歩いた神(37)

          地上を歩いた神(36)

          (2006年8月27日 初版公開) 「真理とは何か?」 ローマ総督であったピラトはイエスにこう尋ねた。しかし、彼はイエスの答えを聞かずに、その場を去ってしまった。彼はその答えに興味がなかったからなのだろうか。聖書にはそれ以上のことは何も書かれていないので本当のところは分からない。どうやらピラトにとって重要なことはイエスの語る真理ではなく、ユダヤ人たちが連れてきたこのイエスという人物をどうするかということであったようだ。イエスを官邸に残して、彼は集まっていたユダヤ人指導者た

          地上を歩いた神(36)

          地上を歩いた神(35)

          (2006年8月20日 初版公開) それでは話をイエス・キリストに戻そう。 イエスは大祭司の屋敷で尋問を受けた後、ユダヤ地方を支配化に治めていたローマの総督ピラトの官邸へ連れて行かれた。それというのも、ユダヤ人たちには罪人を死刑に処することができなかったからだ。支配者であるローマ政府の許可なくして、勝手な行動はできなかったようだ。 もっとも、イエスを排除したいと望めば、密かに殺すこともできたであろうが、さすがにユダヤ人たちもそうはしなかった。おそらくローマ政府を畏れてい

          地上を歩いた神(35)

          地上を歩いた神(34)

          (2006年8月13日 初版公開) イエスを捕らえようとやってきた祭司や役人たち、また兵士たちは二度までも、イエスの言葉によって地に倒されたが、イエスを捕らえることを諦めはしなかった。すると、弟子のひとりであるペテロが、持っていた剣を抜き、多勢に無勢を覚悟の上で果敢にも撃ちかかったが、彼が守ろうとした肝心の師に諌められてしまった。弟子たちがなす術もなくうろたえるなか、兵士たちはイエスに縄を掛けて捕らえ、大祭司の屋敷へと連れ去ったのである。 たまたま弟子のひとりが大祭司の知

          地上を歩いた神(34)

          地上を歩いた神(33)

          (2006年7月30日 初版公開) イエスを捕らえようとやってきた祭司や役人たち、また兵士たちは二度までも、イエスの言葉によって地に倒されたが、イエスを捕らえることを諦めはしなかった。すると、弟子のひとりであるペテロが、持っていた剣を抜き、多勢に無勢を覚悟の上で果敢にも撃ちかかったが、彼が守ろうとした肝心の師に諌められてしまった。弟子たちがなす術もなくうろたえるなか、兵士たちはイエスに縄を掛けて捕らえ、大祭司の屋敷へと連れ去ったのである。 たまたま弟子のひとりが大祭司の知

          地上を歩いた神(33)

          地上を歩いた神(32)

          (2006年7月23日 初版公開) さて、自分の終わりの時が近づいていることを悟った―いや、悟ったという言い方は正しくないかもしれない、なぜならイエスは自身も神であり、すべてを知っておられるお方であるから―イエスは、長い祈りを捧げた後、弟子たちを伴って、ある庭園へと出掛けて行った。イエスはその場所で、弟子たちと語らうことがよくあったという。おそらく、イエスに会いたければ、その庭園へ行けばよいということは、弟子たちの間では当然のように知られていたのかもしれない。 そして、イ

          地上を歩いた神(32)

          地上を歩いた神(31)

          (2006年6月4日 初版公開) イエスは弟子たちに、自分が去らなければならないことを伝えた。そして、助け主である聖霊がやがてやってくることも告げた。彼は弟子たちに伝えておきたいことをすべて伝えたかのようだ。 その後、イエスは天を見上げて、祈りを捧げた。十七章の最初から最後まで全二十六節がイエスの祈りとして記録されている。実に長い祈りである。今までにヨハネの福音書は幾度となく読んできたはずであるが、不思議なことに今まで深く考えたことのない章であることに気付いた。今、自分の

          地上を歩いた神(31)

          地上を歩いた神(30)

          (2006年5月28日 初版公開) さらにイエスは弟子たちに、今後のことについてこのように話した。「世間はあなた方を嫌うことでしょう。しかし、覚えていなさい。世間は先に私を嫌ったのです。もしあなた方が世俗の世界の一員であれば、世間はあなた方を歓迎することでしょう。しかし、私があなた方を選んだのです。それだから、この世の中は、私を憎んだように、あなた方をも憎むことでしょう。」 キリストはイスラエルの王、救い主としてこの世界にやってきたのである。その身分に相応しい扱いを受けて

          地上を歩いた神(30)

          地上を歩いた神(29)

          (2006年5月21日 初版公開) 愛というものほど分かり易そうで、分かりにくいものはないのではないか。愛という言葉ほど頻繁に使われているにも関わらず、理解されにくい言葉はないのではないか。夫婦愛、親子愛、兄弟愛、人類愛、隣人愛…と様々である。そもそも愛とは一体何であろうかと、そう考えることがある。 さて前回のおさらいになってしまうが、木と枝の関係でキリストと結ばれていることによって、私たちは信仰的な成長を遂げるうえで必要なものを得ることができる。そして、私たちをキリスト

          地上を歩いた神(29)

          地上を歩いた神(28)

          (2006年5月14日 初版公開) ユダヤ人たちに捕らえられてしまう刻限を目前にして、イエスは弟子たちにこう言った。「私は葡萄の木です。そして、あなた方はその枝です。」 どういうわけかこの箇所は私の心に深く刻まれている。私がイエスのこの言葉を読んだのは、クリスチャンになる前だったか後だったか、あまりよく覚えていない。いずれにせよ信仰が未熟な時期に読んだことだけは確かだ。しかし、それにも関わらず、忘れ去られることもなく、今の今まで私の頭と心に残されているのだ。 イエスは弟

          地上を歩いた神(28)

          地上を歩いた神(27)

          (2006年5月7日 初版公開) イエスは「世にいる自分のもの」を愛したと書いてある。すなわち、イエスを信じ、彼に従った人々のことであろう。そして、常にイエスを慕っていたのは、まさしくイエスの弟子たちであった。イエスは弟子たちに、自らのそのような気持ちを伝えようとしていた。 ところで、愛情を表す様は十人十色であろう。相手に対する自らの愛しみの気持ちを伝えるために、こうしなければいけないとかああしなければいけないという決まり事は存在しないものだと思う。だからといって、それが

          地上を歩いた神(27)