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地上を歩いた神(39)

(2006年9月17日 初版公開)

イエスが埋葬された翌々日の早朝、マグダラのマリヤはイエスの墓にやってきた。イエスが亡き後も、できることならイエスのそばにいたいとの思いがあったのかもしれない。そうすることで、少なからずとも慰めを得ようとしていたのかもしれない。日が昇るのを待ちきれなかった彼女は、まだ空が暗いうちにイエスの墓にやってきた。

いざ墓の前に来るとまったく予期していないことが彼女を待ち受けていた。なんと墓の入り口を覆っていた石ーおそらく彼女の身長を上回る大きさであっただろうーが動かされており、墓の中にあるはずのイエスの亡骸が消えていたのだった。慕っていたイエスが死んだことですで気持ちが沈んでいた彼女は、気を失いそうになったに違いない。なんとか気を静め、彼女は急いでペテロともう一人の弟子にこのことを伝えに走った。

「誰かが先生を墓から取ってしまいました!」

やはり彼らもマリヤのようにイエスの死を悲しみ、これからどうするべきかを悩んでいたことだろう。一瞬、この女が何を言っているのか理解できなかったかもしれない。何はともあれ、マリヤが何を言っているのかを知るためにも、彼らも墓に行った。

すると、彼女の言ったとおり、墓の中にあるはずのイエスの亡骸は見えず、それを包んでいた亜麻布だけが残されていた。彼らはイエスの体がどこかへと消えてしまったことを悲しくも悔しくもに思っただろうが、どうするべきか分からなかったのか、何も言わずに帰ってしまった。後に残されたマリヤはどうしていいのかわからず、ただ一人墓の外で泣いていた。ちょうど彼女に声をかける者があったが、彼女はそれを墓所の管理人と思い、イエスの亡骸をどこにやったのかと聞いた。するとその声の持ち主は彼女の名を呼んだ。「マリヤ。」

その時初めて彼女はそれが聞き慣れたイエスの声であることに気付いた。「先生!」

彼女は我を忘れてイエスに抱きついたことだろう。しかし、イエスは落ち着いて彼女に言った。「私にしがみついてはいけません。私はこれから父のところに行かなければならないのです。さぁ、私の兄弟たちのところに行って、こう伝えなさい。私は、私の父であり、またあなたがたの父でもある神のもとに上ると。」

神の子であり、ご自身も神であるイエスの前に、死はまったく何の力も持たなかった。

ユダヤ人指導者たちから蔑まれた目で見られ、兵士たちに痛めつけられ、野次馬の好奇の視線に曝される中で十字架につけられたイエスの復活は、誰の目にもつかない時と場所で起こった。人の世の騒々しさと、神の静かさを見ている気がする。

ある人々は親しみと希望を持ちながら、またある人々は憎しみと妬みと疑惑に満ちた思いで、イエスのことを見ていたが、イエスが死にすべてが終わったかのように見えた時には、人々の関心はすでにイエスから離れていたようである。イエスがいかに人々の病をいやし、多くの奇跡を行い、神の国について教えたとしても、イエスの死と共に、それらはもはや過ぎ去ったものとして人々の記憶の片隅に追いやられてしまったようだ。

私が言うのもおこがましいが、イエスにして見れば、何とも割に合わないことではないか。そのような人々に自らの存在を知らしめようと思えば、そうすることはいかようにもできたであろう。それこそ誰もが気付くように夜の闇に包まれた都を照らすように墓の中から目映い光を発しながら、空中に姿を現すこともできたであろうし、それこそ人々に畏れを抱かされることは容易であったろう。

ところが、イエスの復活はそのよう賑々しいものではなかった。ひっそりと誰も気付かない時によみがえったのだ。人々から祭り上げられることを好まず、静かに教え、夜一人で祈ることを好んだイエスらしいと言えば、実にイエスらしい。しかし、これが神の本質なのである。神は、人々に畏怖されることを望んではいない。むしろ神が望むことは、私たちが自らの気持ちと思いと考えに従って、自らの意志で神を信じ、神を慕うようになることではないのだろうか。イエスの復活が静かなうちに過ぎたのも、それが理由だろう。

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