地上を歩いた神(35)
(2006年8月20日 初版公開)
それでは話をイエス・キリストに戻そう。
イエスは大祭司の屋敷で尋問を受けた後、ユダヤ地方を支配化に治めていたローマの総督ピラトの官邸へ連れて行かれた。それというのも、ユダヤ人たちには罪人を死刑に処することができなかったからだ。支配者であるローマ政府の許可なくして、勝手な行動はできなかったようだ。
もっとも、イエスを排除したいと望めば、密かに殺すこともできたであろうが、さすがにユダヤ人たちもそうはしなかった。おそらくローマ政府を畏れていたというよりも、むしろ群衆にばれた時のことを考えると、恐ろしくて手を下せなかったのだろう。
さて、総督ピラトにとっては実に迷惑な話である。外が暗いうちに起こされ、何かと思って外へ出てみると、門の外にユダヤ人たちが集まり、縄で縛られた一人の男を連れて来て、処罰しろと騒ぎたてるのだから、たまったものではない。おまけユダヤ人たちは、身が汚れるからと言い掛かりをつけて、官邸の敷地の中に入ろうとさえしない。そんなユダヤ人指導者たちの態度に辟易しながらピラトは彼らに聞いた。
「何をそんなに騒いでいるのか?何の故あってこの男の処刑を望むのか?」
「もしこの男に罪がないのであれば、我々はここまでこの者を連れてこないでしょう。」
総督であるピラトの耳にイエスが行ってきたこと、教えてきたことは入っていたことだろう。彼が判断する限りでは、処罰に値する罪は見られなかった。
「あなた方がこの男を訴えているのは、あなた方の信仰だの伝統に関することであろう。それならば、あなた方自身で裁けば良いではないか。」
「私たちには死刑を執行する権限がないのはご存知でしょう。」
ピラトはしかたなく屋敷の中へと戻った。そしてイエスを呼んで、話を聞こうとした。
「あなたはユダヤ人の王なのか?」
「それはあなた自身が思うことですか?それとも人がそう言っているから聞いているのですか?」
「私はユダヤ人ではないから、私にとってはどうでもいいことだ。あなたと同じユダヤ人たちと祭司長たちがあなたを私に引き渡したが、あなたは何をしたというのだ?」
イエスは総督に言った。「私の国はこの世のものではありません。」
それでは、イエスの国とはどこにあるのだろうか。今まで見てきたことを振り返れば、それが示すのは神の御国ということになる。
イエスの国とは、この地にはない。昔もなければ、今もない。だからこそ、私たちはそこに行くという希望が持てるのではないだろうか。矛盾しているように聞こえるかもしれないが、もしイエスが王として治める国が現実にあったとしたら、果たして私たちはそこに行くことができるだろうか。たとえば飛行機を乗り継いで行けるようなところにあったとしたら?確かに、行く人々はいるだろう。しかし、この地上にあったとしても、行けない(行かない?)人々もいるだろう。飛行機代が払えない、時間がない、乗り物に酔ってしまう―あまり良い譬ではないかもしれないが―物理的な壁のようなものが彼らの邪魔をしてしまうだろう。
ところでイエスの国がこの世のものでないとすれば、それは彼の王国に行きたいと願う人々を妨げるものが何もないということにもなるのではないか。そして唯一存在する障壁は、精神的、霊的なものだろう。しかし、それらを乗り越えるために信仰というものがある。信じるという意志だけが必要になるのだ。それ以外に必要なものは何もない。
イエスはピラトに言っている。「あなたが言う通り、私は王です。私は、真理のあかしをするために生まれ、そのためにこの世界に来たのです。」
イエスはこの世界で王になるためではなく、真理を伝えるためにこの地で生きたのである。なぜ真理を伝えるのか。それは真理を聞いて、初めて人は何を信じればいいのかを知ることができるからだ。それはイエスがこの世で王国を興すことよりも、時間と場所を越えて多くの人々を、神の御国に迎えいれるためだ。
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