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地上を歩いた神(27)

(2006年5月7日 初版公開)

イエスは「世にいる自分のもの」を愛したと書いてある。すなわち、イエスを信じ、彼に従った人々のことであろう。そして、常にイエスを慕っていたのは、まさしくイエスの弟子たちであった。イエスは弟子たちに、自らのそのような気持ちを伝えようとしていた。

ところで、愛情を表す様は十人十色であろう。相手に対する自らの愛しみの気持ちを伝えるために、こうしなければいけないとかああしなければいけないという決まり事は存在しないものだと思う。だからといって、それが自分の相手への気持ちを表すのならば、どんなことをしてもいいのかと言えば、それも違うだろう。相手を愛しく思うのであれば、相手を卑しめたりするようなことは許されまい。

さて、イエスはどのようにして弟子たちに愛する思いを伝えたかというと、彼らの足を洗うことにしたのである。最初にこの箇所を読んだ時には、ずいぶんとへりくだった行為だと素直に感じたのだが、今冷めた目で見ると、足を洗うことがそれほどにすごいことなのかとも考えてしまう。ふと一日が過ぎて風呂にまだ入っていない自分の足を見ても、それほど汚れているようにも見えない。しかし改めて考え直してみると、当時のユダヤ地方と今の日本では、生活様式がまったく異なっていることは明白だ。私たちは、靴下を履いて靴を履いて外に出かける。どんなところを歩こうとも、せいぜい汗で蒸れるくらいで、さほど汚れることはない。ところが、イエスの生きた時代はどうだろうか。かつてバプテスマのヨハネが、イエスの到来を民衆に知らせた時「あのお方のサンダルの紐をほどくほどの価値も私にはないのです」と説明していたことを考えると、きっと素足にサンダルだけを履いていたことだろう。しかも、当時の舗装されていない道をイエスと弟子たちはよく歩き回っていたようである。それを考えると、弟子たちの足は、汗と土と埃で指を触れるのも厭わしいほど汚れきっていたことだろう。もしかしたら、足元をちゃんと見ておらず、うっかりと動物の排泄物に足を突っ込んでしまった弟子もいたかもしれない。そうだとすれば、足を洗うというのは、下僕や召使いがやるべきことのように思えてくる。

イエスはそのようなことをしたのである。やがてペテロの番になり、イエスが彼のところにやってくると、彼はこう言った。「主よ、私の足も洗おうというのですか?」

「私が何をしているのか今は分からないだろうが、やがては分かる日が来る。今はおとなしくしていなさい。」

「それはいけません!私の足など洗う必要はないのです。」

「洗わないというのならば、君と私とは何の縁もないことになるのだが…。」

「そういうことでしたら、私の足だけでなく、手や頭も洗ってください。」

果たしてペテロがイエスの言葉をどう解釈していたのか、私には分からない。おそらく足を洗われることで、イエスとの関係が深まるのであれば、いっそのこと足だけではなく手や頭も洗ってもらうことで、それだけイエスと親密な間柄になれるものと期待したのかもしれない。そう言ったペテロにイエスはこう答えている。「体全体をきれいに洗った人は、足だけをきれいにすればいいでしょう。あなた方はすでに清められているのです。もっともあなた方の全てがそうであるとは言いませんが。」

イエスは全員の足を洗い終わると席に戻って弟子たちに語りかけた。「私が今したことの意味が分かりますか?あなた方は私のことを『先生』だの『主』だのと呼んでいます。確かにその通りでしょう。あなた方がそう呼んでいる私が、あなた方の足を洗ったのです。だから、あなた方も互いに足を洗いなさい。」

これがイエス・キリストの弟子たちに対する愛情の表し方であった。イエスご自身が、愛するとはどのようなことであるかの手本を示したのである。愛するということは、すなわち自らを低くし、相手に仕えることを意味するのではないだろうか。しかし、何よりもこれがキリストを通して私たちに示された神の愛である。全知全能である神は、人に対して尊大な態度で望むことはなかった。むしろへりくだった態度でその気持ちを表したのである。これが本当の愛というものであろう。

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