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地上を歩いた神(28)

(2006年5月14日 初版公開)

ユダヤ人たちに捕らえられてしまう刻限を目前にして、イエスは弟子たちにこう言った。「私は葡萄の木です。そして、あなた方はその枝です。」

どういうわけかこの箇所は私の心に深く刻まれている。私がイエスのこの言葉を読んだのは、クリスチャンになる前だったか後だったか、あまりよく覚えていない。いずれにせよ信仰が未熟な時期に読んだことだけは確かだ。しかし、それにも関わらず、忘れ去られることもなく、今の今まで私の頭と心に残されているのだ。

イエスは弟子たちや彼のもとへと集まってきた人々に譬え話を用いて、様々なことを教えることが多かった。その内容は聖書にも残されており、今日でもイエスの譬え話を読むことができるのだが、はっきり言って理解するのに難しい話ばかりである。人から説明されたり、教えられたり、もしくは自分で調べたり、推測したりすることで、言わんとしていることがなんとなく分かったような気にもなるが、それでも釈然としないことがある。しかし、そのような譬えが多い中で、この葡萄の木の話に限っては何ら疑問を持つことなく、すんなりと私の中に入ってくるのだ。十年以上も昔のことは覚えてないが、おそらく最初にこの箇所を読んだ時も、おぼろげながらイエスの言わんとしていることが分かったのかもしれない。それ故に、今でも印象深く記憶されているのだろう。

イエスは言っている。「私は葡萄の木です。そして、父なる神は、その庭園の手入れをして下さるお方なのです。実を結ばない枝を見つけては切り取り、実を結ぶ枝を見つけると、より一層実を実らせることができるように手入れをして下さるのです。」

葡萄の木に限ったことではないが、木というのは、まず幹がある。幹はしっかりと地中に根を張り、そこから必要な水分や栄養分を吸収するのだ。枝はそのような幹から生えている。つまり枝にとって木の幹とは文字通り命の源なのである。私たちにとって、イエスとはこの木の幹なのである。イエスという幹に生える枝になることで、私たちは生きていく上で必要なものを得ることができるのだ。そして、十分な「栄養」を受けることで、枝は実を実らせることができようになる。

それでは、枝である私たちは、木であるイエスからどのような栄養を吸収することができるのだろうか。それは、単純に一言で言い切れるようなものではないだろうと思う。イエスが私たちに与えて下さる物とは、枝である私たちの成長にとって必要なすべてのものであろう。実際、話の中でイエスはこうも言っている。「あなた方が私の枝である限り、何でも望む物を願いなさい。それはあなた方に与えられるでしょう。」

だからと言って、私たちが欲しいと思う物が何でも手に入るというわけではない。そんなうまい話があるわけがない。望んで与えられると言っても、それはあくまでも枝が育つ上で必要なものに限られてのことであろう。しかし、枝である私たちにとって最も重要なことは実を実らせることであろうから、それはそれで十分なはずである。そして、農夫である神が、ちゃんと枝の手入れをして下さるのだ。必要な栄養が実を実らせるために使われるようにと、余計な枝葉を切り取ってくださるのである。

木であるイエスが与える栄養が何であるか、枝である私たちが結ぶ実が何であるか、農夫である神が取り除く枝葉が何であるか…それらが具体的に何を示しているかは、分からない。それは葡萄の枝の形が一様でないように、私たちも互いに違っているからであり、その枝の育ち具合が異なるように、私たちの成長も人それぞれであるからだ。また一本の葡萄の木に色も形も実の数もまったく同じ房が二つと実らないように、私たちもまた同じ実を結ぶことはないのである。しかし、これを見て分かることがある。それは、葡萄の木と葡萄の枝と葡萄園の農夫の関係である。枝がどんな枝であれ、結ぶ実がどんな実であれ、これだけは変わらない。

そして、木と枝はキリストの言葉と愛で結ばれている。実を結ぶこともなく、切り捨てられてしまうことになる枝は、この結びつきが薄いからなのだろう。良い実を、朽ちることのない実を実らせる枝でありたい。

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