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地上を歩いた神(32)

(2006年7月23日 初版公開)

さて、自分の終わりの時が近づいていることを悟った―いや、悟ったという言い方は正しくないかもしれない、なぜならイエスは自身も神であり、すべてを知っておられるお方であるから―イエスは、長い祈りを捧げた後、弟子たちを伴って、ある庭園へと出掛けて行った。イエスはその場所で、弟子たちと語らうことがよくあったという。おそらく、イエスに会いたければ、その庭園へ行けばよいということは、弟子たちの間では当然のように知られていたのかもしれない。

そして、イエスを裏切ることになるユダも弟子のひとりとして、そのことを知っていたのだろう。イエスと弟子たちが庭園にいるであろうことを考え、彼は一隊の兵士と役人たちをその場所へと導いたのだった。

そこでふと考えてしまうのだが、なぜ役人たちは一隊の兵士を伴っていたのだろうか。イエスや弟子たちが抵抗するとでも思ったのだろうか。思えば、イエスは今まで力で人を圧倒したことはなかったはずである。一番それに近しいことといえば、神殿で金儲けをしていた商人たちの売り台を打ち壊したことであろうが、それでもそこにいた商人たちに手を上げることはなかった。イエスをいつか捕らえようとして、絶えず彼のことを付け狙っていた彼らにその程度のことが分からないこともないはずである。それにイエスと一緒にいる弟子の人数はたかだか十二人でしかないし、全員がそこにいたのかさえ分からない。しかも弟子たちは漁師であったり、取税人であったりと言う具合で、争いごとに長けている者ではなかった。役人たちの護衛、囚人の護送のために、少人数の兵士がいるのならわかるが、一隊の兵士である。イエスは革命家ではなく、あくまでも神のことばを伝える教師であった。今で言えば、一人の思想家を重武装の警官隊が取り囲むようなものであろう。

その効果はなんであろうかと、少し考えてみた。彼らが大人数で、しかもその大半は武器を携えた兵士たちであるということは、すなわち相手に対してこちらの権威を見せつけることになり、それは無言のうちにイエスと弟子たちを屈服させることになるのではないだろうか。もしかしたら、そのように役人たちは期待したのかもしれない。

ところが、イエスは兵士たちが迫ってきても動揺することなく、落ち着いて彼らにこう聞いている。「あなたたちは誰を探しているのですか。」

彼らはこう答えた。「ナザレ人のイエスを探しているのだ。」

イエスが逃げようと思えば「そんな人はここにはいない」と答えることもできたであろう。イエスのことを知っているユダもそこにいたが、ユダのことを知らないと白を切ることもできたであろう。しかし、イエスはそのような小ざかしいことはしなかった。当然といえば当然である。そのようなことはイエスが今まで伝えてきたことのすべてを打ち消してしまうことになるからだ。

そこで、イエスは本当のことを言った。「私がイエスです。あなたたちが探しているのはこの私でしょう。」

その言葉を合図に、イエスを捕らえるかと思えば、彼らは後ろに下がって、そのまま倒れてしまったという。

もう一度、イエスが誰を探しているのかと聞くと、やはり最後に彼らは倒れてしまうのだった。

イエスが話すと、剣や槍や盾で武装した兵士たちが一斉に尻餅をついてひっくり返る場面を頭の中でイメージしてみると、なんとも滑稽に思える。しかし同時に、イエスの権威をはっきりと見て取れる場面ではないだろうか。考えてみると、イエスの権威は言葉によく現れている気がする。彼が言葉を発すると、それが現実に起こるのである。それは死者をも生き返らせることができるほどなのである。以前、ラザロの話を読んだが、あの時もイエスが墓の外から「ラザロ、出てきなさい」と言っただけである。

「私がイエスです。」我々がイエスを友として迎えるならば、この言葉は祝福になる。しかし、イエスを友としないならば、それは人を打つことさえできるのである。

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