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地上を歩いた神(34)

(2006年8月13日 初版公開)

イエスを捕らえようとやってきた祭司や役人たち、また兵士たちは二度までも、イエスの言葉によって地に倒されたが、イエスを捕らえることを諦めはしなかった。すると、弟子のひとりであるペテロが、持っていた剣を抜き、多勢に無勢を覚悟の上で果敢にも撃ちかかったが、彼が守ろうとした肝心の師に諌められてしまった。弟子たちがなす術もなくうろたえるなか、兵士たちはイエスに縄を掛けて捕らえ、大祭司の屋敷へと連れ去ったのである。

たまたま弟子のひとりが大祭司の知り合いであったので、先に師を守らんとしたペテロは屋敷の中庭に入れてもらうことができた。果たして、彼は可能な限りイエスの側にいて慰めを得ようとしたのか、それとも機会を見つけて、イエスを救出しようとしたのか…ペテロのことはまた後日考えよう。

さて、イエスは大祭司の前に引き出された。大祭司はイエスに、弟子のことについて、また彼が教えてきたことについて問い詰め始めた。ここには、大祭司がどのようなことを聞いたのかまでは書かれていない。しかし、イエスの発言はしっかりと記録されている。大祭司の問いかけよりも、イエスの言葉の方が、きっと重要な意味を持っていたからなのだろう。彼は大祭司に向かって、こう答えた。

「私は今まで会堂や神殿で、また時には野や山で、集まった人々にはっきりと教えてきたではありませんか。ですから、隠して教えてきたことは何ひとつとしてありません。なぜ、あなたは私が話したことを、私に聞くのですか。私の話を聞いた人は大勢いるはずです。その人たちに聞けばよいではありませんか。」

誰もが腰を屈める大祭司の前で、臆することなく語るイエスを見るや、そこにいた役人の一人は腹を立て―もしかしたら大祭司に媚びようとしたのかもしれないが―イエスを平手で打ち、こう言った。

「大祭司に向かってなんという口の聞き方をするのだ!身の程もわきまえろ!」

イエスは役人に目を向けると、こう言った。

「私が何か誤ったことをしたというのですか?もしそうならば、その証拠を見せなさい。しかし、もし私が誤っていないというのであれば、なぜ私を打つのですか?」

当の本人たちはそうは思っていなかったもしれないが、私の目から見ると、大祭司にしても役人にしても、愚かしいことを言っているだけに思える。彼らを相手にイエスが何か特別なことを語っているかというと、そうでもない。イエスは事実を淡々と語っているに過ぎないのだ。確かに、イエスは今まで人々の集まるところで、彼らに神の御国について、人の罪とその罪からの救いについて語ってきた。また、多くの奇跡を行ってきた。彼がこっそりと隠れて一部の人だけに教えたことは何一つないのである。弟子たちに語ることはあっても、それは大勢に教えたこと言っていることは同じことであった。イエスが何を教えていたかを知りたければ、人の集まるところに行くだけで、「イエスという人はこんなことを言っている…」「あのお方はどこそこの誰それの病気を癒したというではないか…」という具合に、噂からでも知ることができたことだろう。しかし、大祭司たちがそのことを一番知っているはずである。何しろ、祭司や学者や役人たちはそれが理由でイエスを恨み、彼を捕らえたのであるから。

イエスを前に愚かなことをするものだと、この祭司と役人を嘲りたくなるが、では私たちはどうであろうか?たしかに、イエスを神の子として認めるという点においては、彼を捕らえた者たちよりも知恵があると言えよう。しかし、私たちは時として、雲の上から地上を眺めているような神よりも、自分たちは物事や状況を把握していると思い込んでしまうことがあるのではないだろうか。皮肉なことに神の助けを求めなければならないような時に限って、自分でなんとかしようと考えてしまうものだ。人には見栄があり自尊心があるからだろう。これらの思いはどうこうできるようなものでもない。しかし、ひとつ確実なことがある。それは、神の知識は人のそれをはるかに超えているということだ。そのような神に頼らずして、自らを頼むとは…。

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