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地上を歩いた神(38)

(2006年9月10日 初版公開)

「ユダヤの王」という罪状の元、十字架につけられたイエスの足下では、一通りの仕事を終えた兵士たちが、イエスの着物を誰が取るかとくじを引いていた。そのそばではイエスの母とその姉妹、また彼を慕っていた女性がなすすべもなくイエスを見つめていた。そして、一人の弟子もそこにいた。しかし、彼もまたイエスを最後まで見守る以外に、できることは何もなかった。

そのような中でイエスは、人としての命を終えた。

さて、イエスと二人の罪人の処刑は安息日の前日に行われた。ユダヤ人たちは安息日に死体を放置しておくことを好まず、安息日がくる前に死体を処分することができるように、ピラトに罪人たちの足の骨を折り、彼らの死を早めることを願い出た。もはや、イエスを助けるにしても、彼の力ではどうすることもできないことを悟った彼は、ユダヤ人たちに言われるがまま、兵士たちに命じて、十字架につけられている三人のすねを折るように命じた。兵士たちは表情を変えることなくイエスの両脇の罪人たちの足の骨を砕いた。しかし、彼らがイエスの前に立った時、イエスはすでに息絶えていた。

ところで、なぜ足の骨を折る必要があったのだろうか。もしかしたら疑問に思うことなく、気に留めることもなく読み過ごしてしまうかもしれないが、実際これは十字架での死が如何に想像を絶したものであるかを表している。

あまり気分のいい話ではないが、今日の社会では、死刑といえども一瞬で終わる方法もしくは苦しみが少なく終わる方法が取られている。電気椅子であれ薬物投与であれ、ある意味、死刑囚に対する最後の情けといえるかもしれない。ところが、十字架というのは、人としての情けをまるで無視した刑罰であった。十字架につけられた者は、自らの体重によって伸ばされた胸の筋肉が肺を圧迫し、最終的に呼吸困難に陥り窒息死すると言われている。足で自分の体を支えることができるうちは死ぬことはないが、一度自分の体の支えを失うと、肺から空気が抜けるのを待つだけという、まさしく残忍なことこの上ない刑罰であるといえよう。足の骨を砕くということは、すなわち確実な死を意味する。

ところでイエスは本当に息絶えていたのだろうか。もしかしたら、兵士たちの見間違いで、実はまだ息があったのではないだろうか…そう考えてもおかしくはあるまい。しかし、イエスの心臓は確かに止まっていた。その証拠として、ひとりの兵士が槍でイエスの脇腹を突いた時、血と水が出たと書かれている。これもやはり気にしないで読んでしまえば、「不思議なことがあるもんだ」と思うくらいで済ませてしまうだろう。何を隠そう、私自身そう思っていたことがある。ところが、聞くところによると、これは不思議なことでも何でもないらしい。私には医学の知識がないので細かいことはよく分からないが、心臓が完全に停止すると、人の赤血球と血漿は分離するという。つまり、イエスの肉体は確かに死んでいたということになる。

イエスは重い傷を負い、痛み苦しみに耐えかねて意識を失ったわけではなかった。確かに、十字架の上で死んだのだった。

イエスの死が確かなものとなると、やがて人々はその場から離れていった。ひと仕事を終えた兵士たちは兵舎へと戻り、群がっていた人々も家路についた。ユダヤ人たちは邪魔者がいなくなったことを喜び、それぞれの場所に戻り、その一方で最後までイエスのそばにいた弟子も、女たちも悲しみつつも今までの生活に戻ることを考え、一人またひとりと姿を消していった。ただ、十字架のイエスのみが後に残された。この時までいかに憎もうとも、慕おうとも、彼が死んだ今となっては人々にとって過去の人となった。

しばらく経った後、イエスに従っていたヨセフという男と、以前夜中にイエスのところにきたニコデモがイエスの亡骸を引き取り、香料と亜麻布でイエスを包み埋葬した。

この地上における人としてのイエスの最後であった。もしイエスがいなければ、我々が迎えるべき最後であった。

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