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地上を歩いた神(40)

(2006年9月24日 初版公開)

復活したイエスに出会ったマグダラのマリヤは、そのことを弟子たちに告げた。ところが、弟子たちはそれを聞いて喜ぶどころか、彼女の言うことに耳を貸そうとはしなかった。彼らはイエスの死については確信していたようだが、彼の復活については全く信じようとはしなかったようである。

イエスは神の子であり自らも神であるから、かつて死人をよみがえらせたように、ご自身も死に束縛されることなく復活した…そのように言葉で言ってしまえば、それはそれで簡単なことである。イエスの数々の奇跡をその目で実際に見て、イエスが話したことをその耳で直接聞いて、イエスが神の子であることを認めながら、それでも彼のよみがえりを信じないとは、弟子たちの信仰はその程度のものでしかなかったのかと疑ってしまいそうになる。しかし、そう思ってはちょっと弟子たちに酷だろう。私たちは彼らのように直接イエスと過ごしたわけでもなければ、イエスの死を間近で見聞したわけでもない。それだから、私たちは聖書を読んでも、冷静に見たり考えたりすることができるのではないか。ところが、弟子たちにしてみれば、すべてが彼らの直接の体験なのである。イエスの死を悲しみ、また自分たちが危険な立場にいることを分かっている身であればなおのこと、弟子でもない一人の女が、イエスが復活されましたと騒いだところで、それを冷静に、ああそうですかと受け止めることなどできるわけがないであろう。

そのようなわけで、弟子たちはマリヤが何と言おうとも、隠れ家の窓や扉を閉じて隠れたまま、これからどうするべきかと悩んでいたことだろう。

すると突然、どこからともなくイエスが現れたのである。いや、文字通りどこからともなく現れたのである。なぜなら、閉め切ってあった部屋の中には弟子たちしかいなかったにも関わらず、次の瞬間にはイエスがそこに立っていたのである。驚いたというよりも、弟子たちは我が目を疑ったかもしれない。素直な喜びよりも、幻覚を見ているのかという疑問がまず先に浮かんだことだろう。困惑している弟子たちを安心させるかのように、イエスはこう言った。「平安があなた方にあるように。」

そして、イエスは自らの手の傷と脇腹の傷とを弟子たちに見せた。そして、弟子たちは目の前に立つイエスが本物であり、マリヤが話していたことが戯言でなかったことに気付き、イエスの復活を確信し、初めて喜ぶことができた。そんな弟子たちにイエスは再び言った。「平安があなた方にあるように。父である神が私を遣わしたように、私もあなた方を遣わします。」

さて、買い出しにでも行っていたのか、弟子の一人でトマスという男は、このとき隠れ家にいなかったので、イエスと出会うことがなかった。戻ってきた彼は、隠れ家の様子が出掛ける前と違うことに気付いたことだろう。それまで悲愴な面持ちだった弟子たちの顔には一様に喜びが見られたに違いない。不思議に思うトマスに、他の弟子たちが言った。「トマス、惜しいことをしたな。我らが師、イエス様がここにいたんだぞ!」

「何を言ってるんだい。夢でも見たんじゃないか?おれは、実際に自分の手で、先生の手の釘の傷跡に触れ、脇腹の傷に触れてみるまでは信じないよ。」

そんなことがあってから八日後のこと、今度はトマスも含めた弟子たちがやはり閉め切られた部屋の中にいると、再びイエスが訪れた…いや、現れた。「平安があなた方とありますように。」

トマスの気持ちを見抜いたイエスは彼に自らの傷を触れさせてみた。そして初めてトマスはイエスが実際によみがえったことを信じた。「我が主、我が神よ!」

「私を見たから信じたのですか?私を見ないで信じる者は、幸いです。」

さて、イエスが三度も続けて言っているように、彼が弟子たちに与えたのは、平安であった。それは、やがて世界の果てに向けて送り出されることになる弟子たちを励ますための平安であり、イエスに直接出会うことなく彼を信じる者たちの祝福に結びつくものでもあった。イエスの与える平安とは、単なる不安からの解放ではない。それは、私たちに力を与え、人々に祝福をもたらすものなのだろう。

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