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地上を歩いた神(36)

(2006年8月27日 初版公開)

「真理とは何か?」

ローマ総督であったピラトはイエスにこう尋ねた。しかし、彼はイエスの答えを聞かずに、その場を去ってしまった。彼はその答えに興味がなかったからなのだろうか。聖書にはそれ以上のことは何も書かれていないので本当のところは分からない。どうやらピラトにとって重要なことはイエスの語る真理ではなく、ユダヤ人たちが連れてきたこのイエスという人物をどうするかということであったようだ。イエスを官邸に残して、彼は集まっていたユダヤ人指導者たちのところに行き、こう言った。「私はあの男に何の罪も見出すことができない。さて、あなた方が祝う過ぎ越しの祭りには、囚人を一人恩赦する慣例になっているが、あのイエスという男を釈放してもらいたいのか?」

おそらくピラトは、ユダヤ人たちが思い直してイエスの釈放を望むことを期待していたのかもしれない。ところが、彼の期待を裏切るかのように、彼らはバラバという名の強盗を釈放しろと求めてきた。なぜ人々は何の過ちも犯していないイエスを強盗よりも忌み嫌っているのかと、彼は驚いたに違いない。しかし、罪のないこの男の処刑をひとつ返事で認めることができるほど、ピラトは愚かでもなければ冷酷な人物でもなかった。ひとまず彼は、イエスを兵士たちに引渡し、残忍さで知られる鞭打ちに処せられることを許可した。もしかしたら、こうすることで人々の憎しみが静まるであろうことを望んでいたのかもしれない。

その後、ピラトは再びユダヤ人たちに、イエスに何の罪も認められないことを伝えた。しかし、人々は納得するどころか、むしろ彼らの憎悪が増したかのようであった。やがて彼らは叫び始めた。

「十字架につけろ、十字架につけろ!殺してしまえ!」

「そんなにこの男を十字架につけたければ、あなた方がやればよいではないか!私はこの男に何の罪も認めないし、罪のない者を十字架につけることはできない。」

ピラトは頑なにユダヤ人たちの要求を拒み続けた。そのような彼に、ユダヤ人はこう告げた。「あの男は自らを神の子と呼んだのです。それは、私たちの律法に従えば死罪に値することなのです。」

それを聞いたピラトは、今まで噂に聞いたように、イエスはただの人間ではないかもしれないと考え、恐れを覚えた。(神の子であることが、イエスの罪になるのか…。)官邸に戻った彼は、イエスに聞いた。「あなたはどこの人なのですか?私には、あなたを自由にすることもできれば、処罰することもできるのです。」

「誰があなたにそのような権威を与えたのですか?天から与えられたのでなければ、私に対して何の意味もありません。」

ピラトに権威を与えたのは天ではなく、ローマ皇帝カイザルであった。彼は自分にはどうすることもできないことを悟ったことだろう。やがて、彼はユダヤ人の脅迫とも言えるような圧力に屈して、イエスの死刑を認めることとなった。

イエスの死を望んだ役人たちや祭司長たちと比べると、ピラトはそれほど悪い人間ではなかった。むしろ、人間的な基準から見たら、善人の部類に入るかもしれない。彼は、真理についての関心は少なかったかもしれないが、罪のない者に罪を認めるほど愚かではなかった。彼はイエスが神の子であるかもしれないと畏れ、また彼を助けたいと願うが、最後は周囲からのプレッシャーに負けて、自分の意志に反した行為に荷担してしまう。

そのようなピラトをどう思うか…。弱い人間?確かに。しかし他人事ではない。ピラトの姿に、ごく普通の人―私自身も含めて―を見ているような気がしなくもない。

正しいことが何かを知り、それを行うことを願うが、周りに流されてしまう。それは人が完全ではないことの証明かもしれない。そして完全ではないからこそ、神の助け、救い主の赦しが必要となってくる。

これもまた、真理であると言えよう。

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